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斯くもすばらしき入院生活①

「そんなことしてると、いつか首痛めるわよ」
 注意をしても孫はしばらく懸垂を続け、私に彼の限界は八回であるところを見せてくれる。いつもは五回でへばることを思うと、今日はずいぶんと張り切ったことになる。おそらく彼は、彼が思う人はかくあるべし姿を私に示すためにやって来たのだ。健康体そのものの彼。そのことは私も彼と同じぐらい知っている。今日もすこぶる健康であることを確かめ終わると、彼はドア枠から指を離し地面へと降り立った。
「おばあちゃんは意味ないって言うけどね、運動をするのはうつ病対策によく効くらしいんだ」彼は喘ぐことなく、一回だけため息をついた。汗をかいたのか、ジャージを掴んで服の中へとパタパタと風を送り込んでいる。だが、私には必要に迫られてというより儀礼的にやっているようにしか見えない。マングースが蛇に飛びかかるといったように、どこか他人を意識しているようにしか見えないのだ。終には集まった観客(?)にとぼけた丸っこい目を見せるという念の入りよう。その目が私に、なぜ私が彼と同様ジャージを着てせっせと懸垂に励んでいないかという疑念を抱かせる。朝靄のような疑念。晴らそうとして、いくら私が腕を動かしたところで意味がない。彼はその靄の中をスタスタとベッドに臥す私の方へと歩み寄ってきた。言うまでもないことだがその間も彼の口は絶えず動いている。「それにおばあちゃんは知らないかもしんないけど、最近の女の子ってのは太っているよりは、いくらかマッチョの方が好きなものなんだ」私が警戒の視線を解かずにいると、彼はバツの悪そうに、「マッチョは少し言い過ぎた。ほどよく筋肉のついた、だね」そう言って、ベッドのフレームに手をかけ、ふくらはぎを伸ばし始める。「もちろん例外は別だよ」

 私は後半にかけてなされた言葉は聞き流し、最初の言葉だけにコメントをつける。「もしうつ病になりたかったとしたって、あなたなんかなれはしないよ」

 私は天井を見上げ、それから右に首を捻って壁を見た。それで私はこの部屋に隔離されている現実を知る。私は心ならずも管理社会の一員に登録されているのだ。それが今、明らかな形となって水面下から表面上へと浮き出てきたというわけだ。だが知ったからといって何ができるというわけではない。私は無力な一市民に過ぎないし、力も意思もそんな私を見限って抜け出してしまったようだから(この機会がなくとも、遅かれ早かれそうなっただろうと言われてしまえばそれまでだが)。そこで私はせめてもとして現状を把握するべく努める。自由と引き換えにして果たして何を手にしたのだろう、と。それにここから抜け出すためには、自力でなんとかやっていけることを示さねば、とも。

 孫はふくらはぎのストレッチが済み次第、次の部位へ――それは逞しい太腿、足首、手首、背筋、横に形成す腹筋、最後は肩回りへと順々に巡っていく。全て同時にとはいかない。
「背中と腕以外使ってやしないじゃないの」
 孫は知らないとは意外だな、と言いたげに眉を三日月型につり上げる。「今から家まで走るんだよ」と彼は言う。その、彼にとっては自明の釈明の際にもストレッチの速度が緩められることはない。彼は何の躊躇もなく、加えて身に覚えのない音を響かすこともなく、肩をぐるんぐるんと振り回す。それから壁にかかった時計に視線をやると、その存在に初めて気が付いたかのように目を見開かす。「もうこんな時間か。ではでは、そろそろ行きますかな。ばあちゃん、また来るからね」孫はこの部屋の他に、今日中にあと二十は巡らなければならないポイントを持っているのだろう。そこでの彼は、鍛え始めたばかりの筋肉を見せびらかすことなく、一青年としての爽やかな印象を残して去っていくのだ。私たちの関係のように内容があるのかないのかわからない会話はおくびにも出さずに。そして私といえば、約二十四時間の間(私はおそろしいほどの楽観主義だ)、人間的な会話はお預けにされたわけだ。

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