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斯くもすばらしき入院生活(おしまい)

 その頼りなげな灯を尊重し、蛍光灯はつけないままで会は進行していく。孫はテーブルにケーキを戻す。彼の采配によりケーキが切り分けられる。どうしても自分の手でもって切り分けたいようだ。二人の監視下の元、上手く二個のイチゴが入るようナイフで切り込みが入る。入刀の際、ナイフがスポンジを引き連れイチゴが溝へと倒れかかる。が、そこは護衛二人のサポートのおかげで大事にはいたらず、無事その場を切り抜ける。


 記念すべき最初の一区画が私のお皿に。どうやら十回に分けて食べる必要がありそうだ。皿に移し替える途中、何を思ってのことか、せっかく持ち直したイチゴがごろりと倒れた。ひとたび倒れると皿に留まることなくシーツの上を威勢よく転がり落ち最下点まで。でも、ここで転がり落ちていなければ、私の凝り固まった口角に阻まれて床へと逃げていたことだろう。
「ひとり三個食べられるように、せっかくイチゴを買ってきたのに」孫は恨めしそうにシーツの上に転がっているイチゴを見やる。その罪深い果実は彼の目論見を最後のところで挫いてしまったのだ。だがそんな仲違いは束の間のことに過ぎない。父親からの「落としたの俺の分でいいから、ほこり払って食べてしまいな」との鶴の一言で、すぐに孫とイチゴとの二人の信頼関係は回復する。「お父さんの分ならまあいっか」と彼は納得する。「おばあちゃん、美味しい?」と私に聞いてきた際の彼は、思わぬ場面でイチゴを賞味出来たためにご満悦の表情である。


「ああ美味しいよ」そう返事を受けた彼は肩の荷が下りたかのように、穏やかに微笑む。そしてどうだと言わんばかりに後ろを見やる。
「でもこんな時にもすぐさま反射できるようにしとかないと」孫は振り返ると動かしていた口をぎゅっと結び、自分を戒めはじめる。「力をつけるだけじゃ車椅子に乗せてやることしかできない。だけど、僕がもっと注意深くなれば、歩くサポートだってさせてもらえる」いたって真面目な顔で、自分に言い聞かせているかのように孫は言う。それから彼は後ろに立つ母親の方へさっと振り向く。

 どうやら次は嫁の出番らしい。私は選手交代する間に水を一口飲んで、喉の通りをよくしておく。次に何が登場するのかさえ知らされていないのだから。それと皺重なり合う瞼をぎゅっとつむって、そこら周辺の組織に喝を入れておく。「お母さん、まだお腹すいてます?少し焦げちゃってますけどローストチキンも作ってきたんです」


 嫁が紙袋からホイルで包んだローストチキンを出してくる。表面には焦げをこそげ落とした繕いの後が所々に見受けられる。
「慣れないもんはやるもんじゃないって」後方から孫がにやにやと締まりのない顔でヤジを入れる。
「しょうがないじゃない。ずっと見ておくわけにもいかないんだから」彼女は作ってきたまだら模様のローストチキンを見下ろす。この病室まで来る途中に不注意から泥の中にでも落っことしてしまったかのような表情だ。嫁の後ろでは息子と孫がまるで仲間が怒られる場面を陰からこっそりと盗み見ているかのように笑っている。互いにほくほく顔で、笑い声を忍ばせて。空気を取り入れては吐き出し、細々とではあるが生命を維持して二人の小突き合いを見守っているうちに、私はやっとのことで気がついた。彼らにしてもそう頻繁に会えてはいないのだ、ということを。孫は彼独特の方法でもって父子の関係性を持ち直すべく奮闘してるに過ぎないのだ。


 ケーキの甘さがまだ居残っている口で、私は彼女にこう告げる。「もちろん頂くよ。お腹がどんなにいっぱいだったとしても食べさせてもらうよ」


 私が全く気にしていないかのように自慢の歯でがぶりと喰らいつくと、嫁の表情に赤味が戻る。彼女もまた穏やかに笑う。やっとそれで三人は同じ顔になったわけだ。誇らしげな顔、勝負に負けはしたものの全力を出し切った後のような清々しい顔。彼らは互いを見合ってそれぞれの健闘を称え合う。途中、失敗してしまったものの――いいや、そんな失敗を含んでこその成功なのだ、と。何をしでかそうと彼らは同じ気持ちを共有していたのだ。その気持ちさえ持っていれば、役割も案外捨てたものではないのかもしれない。
 孫の拓海、嫁の舞花、息子の大志。


 それぞれ一つ一つを見れば、役割であることに何ら変わりはないだろう。だが、全体を通して見れば――。一つ一つが指すその先に目を凝らしさえすれば――。そう、それら無くしては何一つ生まれることはなかったのだ。
「それじゃあ僕らも食べよっか。はいこれお父さんの分。一番大きいやつね」


 祖母であり、姑であり、母親である私はその様子を見守る。か弱い光の輪を取り囲む、見慣れた表情それぞれ一つ一つを。おそらく彼らからしても自分を除いた三人が、同じく幸せそうな顔をして見つめ合っているのだろう。

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