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家永三郎の親が大日本帝国の軍人だった件

 前に歴史学者の家永三郎の記事を遺跡ねつ造事件の含みで書いたが、家永三郎は初めから左翼学者ではなく、初めは右翼学者で皇国史観の持ち主だったという。

 家永三郎自身も皇国史観の持ち主であるがゆえに邪馬台国論争では邪馬台国は九州にあったと当初は考えていて、日本の戦前の教科書の『修身』が神武天皇実在説や神武東遷や神宮皇后の三韓征伐も家永三郎自身も歴史的な史実であると信じていたという。

 家永三郎に関して彼は一貫して左翼学者というわけでもなく、戦前は日本の文部省の手先になって皇国史観の旗振りをしていた右翼学者でもあった。

 家永三郎の親・家永直太郎が大日本帝国の軍人だった件

 家永三郎の親は陸軍少将だった家永直太郎という大日本帝国の軍人だった。

 家永三郎ももちろん親の影響を受け、天皇制は日本民族の起源の中心に必要なものであると若い時は考えていたのだろう。

 家永三郎自身も若い時には教育勅語は日本の国を考える上で大切なものであると彼は主張し、天皇陛下万歳!という国粋主義者でもあったのだ。

 家永三郎自身も軍人だった親の影響を受けて陸軍士官学校に入学したいと考えて願書まで取り寄せるほどの人間だったというが、残念ながら家永三郎は健康上の審査で戦前の陸軍士官学校に入学させてもらえなかったという。

 家永三郎が蛇蝎の如く嫌悪していた韓国大統領の朴正煕も満州国軍人で陸軍士官学校出身だったが、家永三郎自身も戦前の朴正煕が日本名で『高木正雄』と名乗って日帝36年の親日派として日本の植民地支配に積極的に協力したように戦前は右翼の旗振りをやって大日本帝国の軍人になりたがっていたのは皮肉なことである。

 日本の敗戦で心のよりどころだった皇国史観が幻想だと分かってからの家永三郎の転向

 家永三郎に関しては戦前は右翼の旗振りであったが、戦後になると彼の中で皇国史観という一種の虚構の物語がすべて間違いであったと痛切に考えるような心境の変化もじわじわ起こっていったのではないか?とも私は思うことがある。

 敗戦を契機に昭和天皇が人間宣言をし、家永三郎が信奉した日本神話に基づく皇国史観が幻想や虚妄でしかなかったと家永三郎は日に日に感じるようになり、ついに彼は完全に皇国史観を捨てるようになり、むしろ自分は皇国史観に騙されたと感じるようになったのではないだろうか?

 私の心境でいえば悪名高い遺跡ねつ造事件を契機に自分のいた東北福祉大学が猛烈に嫌いになって元の古巣を猛批判するような気持ちの変化が戦後の家永三郎にも起こったのだろう。

 家永三郎は戦後になって彼が信奉した日本神話や皇国史観は、Fの原人ねつ造のように日本の近代国家がもたらした虚構や虚妄のねつ造ではなかったのではないか?という考えに至ったのではないだろうか?

 戦後の家永三郎が戦前を否定して皇国史観や天皇制に批判的になり、邪馬台国九州説は間違いで畿内説が正しいと考えるようになったのも彼自身が日本の敗戦というターニングポイントで自分が信じていた皇国史観がFの作り出したねつ造原人のようなものでしかなかったと悟ったのも大きいのではないか?

 昔から家永三郎の正体を知っていた右翼や保守派の学者は家永三郎の思想的な転向に容赦せず、辛辣な批判を続けた

 昔から家永三郎の正体を知っていた右翼学者や保守派は家永三郎に対する批判を容赦しなかったらしく、家永三郎の思想的な転向を国賊とか反日売国奴ということで大日本帝国を否定する愛国者陣営の裏切り者であると糾弾していたという。

 家永三郎は戦前は熱心に文部省の旗振りをしていて皇国史観の持ち主だったが、敗戦を契機に家永三郎は熱心な左翼学者の親玉に転向した卑劣な人間であるということで今も右翼陣営での評価は低い。

 家永三郎自身も戦後の左翼陣営の転向に関して『諸君!』や『正論』などの保守派文化人から指摘されて批判されると家永三郎自身もいたく不機嫌になって私の支持者があなたたちを訴えて裁判沙汰するだろうから、覚悟せよ!と凄んできたという。

 家永三郎自身も思想が180度変わるような転向体験に関しては自分の中でトラウマになっていたのではないだろうか?

 私自身、家永三郎の支持者ではない。

 しかし、家永三郎は戦前、皇国史観の持ち主で戦前は邪馬台国九州説の熱心な信奉者であったが、敗戦を契機に自分の信じた日本神話の神武天皇がそれこそ遺跡ねつ造事件のFがねつ造した日本原人のようなものであるという考えに至り、邪馬台国畿内説の有力な支持者に転向したことはそれなりに正しいという学問的な根拠もあるのではないか?と一定数、評価したい。


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