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デス・レター(フクシマと風評)



今年のフジロックにクラフトワークが出た。50有余年もの間、第一線とは驚くべき偉業である。俺が大好きなアーティストの一組である。

さて、そのクラフトワークが(おそらく去年鬼籍に入った坂本龍一に哀悼の意を示したかったのであろう)、坂本が日本語を監修したRadioactivityを演奏した。曲中バックスクリーンに映し出された「フクシマ」「原発」「やめろ」の文字、そしてハザードマークに「気分を害する」だの「思いやりがない」だのと言った、(敢えて言う)愚にもつかない批判がSNS上で飛び交った。本稿は、これについて、クラフトワークのそしてフクシマの人々の名誉を思ってつづる、「思いやりのある」文章である。

まず、クラフトワークの「フクシマ」大写しは良いことだった。まず、イメージとして、「フクシマ→震災・原発」を想起させた。だれにとってか?もちろん、日本国民全員である。そしてこの場合、日本国民は、被災者と被災者以外に分けることができる。
被災者にとって、「フクシマ」を思い出すことは、むろん良いことである。フクシマが、彼らの故郷であり、思いでのいっぱい詰まった場所だからだ。それが原発メルトダウンによって、2万有余年の間、住めなくなっているとしても、彼らにとって、そこは故郷なのだ。震災直後、被災者ががれきと化した我が家に戻ったのは何のためか。卒業アルバムを、伴侶の写真を取ってくるためであったことを忘れてはいけない。だが、原発被災者は、それができない。故郷に戻れないまま、あるものは別の土地に引っ越し、あるものは、いまだに仮設住宅で暮らす。そして、その場所で、ゼロから幸福を希求したとして、それが「真の故郷」であるフクシマを忘れられるものだろうか?とりわけ、(原発絡みでないとしても)家族の誰かを失ったものであれば、「フクシマ」はむしろ、忘れてはならない言葉ではなかろうか。

一方、その日会場で観ていた大多数の人々はおそらく、フクシマの震災に縁の薄い人々だったと想像する。ならば、クラフトワークの示した「フクシマ」「原発」「やめろ」は、人々に、13年前に起こった大災害を今一度、思い出させることになったはずだ。
そして、そうであれば、実際の被災者にとってこれほどうれしいことはない。人々が災害を忘れるとき、被災者は「棄民」となってしまうからだ。メルトダウンもまた、なかったことになる。被災者の思い出、郷愁は、抹殺される危険もあるからである。

さてさて。一方で、クラフトワークのこの行為にいちゃもんをつける人たち、彼らはおそらく、メルトダウンをしても、フクシマは立派に立ち直っているじゃないか、と言いたげである。済んだことなんだと。前を向こうよと。今更福島県民を傷つけてどーするんだと。

バカ言っちゃいけない。原発付近は、今も立ち入り禁止である。処理水だか汚染水だか知らないが、太平洋に希釈して流そうと、安全であるはずがない。放射性物質は、2万年余り消滅しない。

風評被害という言葉がある。①「クラフトワークがフクシマ・原発といったよ」→②「フクシマは汚染されてるんだってよ」=③「フクシマ産の食物も汚染されてるんだってさ」→④「怖いねえ。フクシマ産は食べないほうがいいねえ」これが風評被害のシステムである。これのどこが悪いかといえば、(ア)①と②の間に驚きがないこと、(イ)②と③の間にリサーチがないことである。誰が悪いか。むろん、このシステムを無批判に信じるすべてのものである。とりわけ(イ)に関しては、リサーチの努力が全くない。なぜか。怠惰だからだ。怠惰ゆえ「識者」と言われる、ばっくりした薄らバカのいい加減な言説を鵜吞みにする。しかも進んで鵜呑みにする。「ほんとかよ?」と疑問を挟まない。なぜか。学校教育でそう教え込まれてきたからだ。昨今ではこれに、ジャパンアズナンバーワン的、美しい国ニッポン(であるはずだ)主義が相俟って、疑問を呈するものを「風評被害のもとだ」と言って駆逐しようとする。

実際に原発事故に何の関係もないものが「フクシマ」を見せられて、いい気持ちはしない。当然だ。そうならば、「フクシマ」を禁句にして、「フクシマの悲劇」を思い出してもらいたい、と思っている人に「あんたがたは我慢しろ」と言うことと同じではないか。このほうが、断然、人間性を失っている。
俺たちは、いやなものを見なければならない。それが生き残った者の礼節だと、詩人の石原吉郎は言った。俺は、礼節を失ってまで不都合なことにふたをする気には、なれない。人間性という意味で、過去は決して、忘れてはならぬ。

「フクシマ」と聞いて、いやな思いをする人がいる、としゃあしゃあという人たちよ。それを「忖度」というんだよ。この忖度が、日本をどうしたか、今の日本がどうなっているか、よく見るがいい。

フクシマをこんな風にしたのは、むろん、東電と政府のせいである。だがそれを増幅させたのは、(もしかしたら被災者を含む)俺たち自身であることの自覚を、クラフトワークは、期せずして示した。我々個人の、くりかえす、メディアでなく、識者でなく、我々個人の思考の出発点は、ここでなければならない。

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