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デス・レター(歌に感情を込めるか?付け足しのようなもの)


この原稿を書くのは、先般上げた原稿が、またしても粗いと感じたからである。八代亜紀が言ったのは「歌に自分の感情を乗せる」である。「込める」ではない。聴衆も感情を「乗せる」と彼女は言う。「乗せる」という言葉の、はっきりした定義は発言者亡き今となっては分かりようがない。ただ「乗せる」の言葉の本義として、「パンにジャムを乗せる」のような使い方だとすると、以下の認識を八代亜紀は持っていた事がわかる。

・八代亜紀の曲への「感情」とは、その曲を聴いたり歌ったりした時の「インプレッション」に近い。言い換えれば、「悲しい」とか「虚しい」とかいう具体性を帯びた、近似値化された感情とは限らない。
・曲は未完成のまま聴衆に提供される。なぜなら、聴衆が自身の感情を乗せるだけの空間が、曲にはあるから。
・従って、八代の提起した歌に聴衆が思い思いの「インプレッション」を加味して、曲は聴衆一人一人の独自のものになる。

とするなら尚更、俺は八代の考えに100%同意する。演歌の世界に身を置きながら、ちゃんとブルースを持っている。知的であり技能も申し分ない。さすがだ。さすがだ八代亜紀。俺はただ、感嘆するしかない。

ところで、前回の原稿は、題材が八代亜紀であった事も伴って、知り合いである無しに関わらず、結構な好反応を得た。その1人がgloptin(グロプチン)である。先日彼が出演するライブハウスに行った。開幕までのひと時、年始の挨拶でもと思い、ベンチに座っていた彼に
「明けましておめでとうございます」と言ったら彼は開口一番、

「感情はこもっているんです、込めるんじゃなくて」

俺は、発言の唐突さにちょっとびっくりしたが、彼の演奏がまさにそうであることはわかっていたので、「さすがだgloptinさん…」と思ったものだった。

gloptin。ご存じだろうか?深胴の鍋をドラムがわりに、自作のモジュラーシンセと合わせて、激しい、音楽の原初を想起させるライブを行う、常に上半身裸のアーティストである。彼は言う。「演奏は考えちゃダメだ。それでも感情は自然と湧き出る。その溢れそうな感情を抑えて、食い止めて、それでもどうしようもなく見えてしまったら、仕方がない」
考えが俺と同じだったので、親近感がより深まった。それはそうだ。エモーショナルでないロックなぞ、ロックではない。それはすでに、曲そのものに宿っている。それを演奏するgloptinが曲の高揚感に煽られてエモーショナルになるのは当然だろう。また、八代と同じく、聴衆自身のエモーションを乗せる隙間を、彼もまた作っている。あるいは意識せず生んでいる。(筆者註:彼は、曲の雰囲気として隙間を作っている、どころの騒ぎではない。物理的に隙間を作ってもいる。彼はライブの最後に客にフライパンを配りまくる。そして曲に合わせて客に叩かせる、というより、客は積極的に曲に参加するという、驚くべき光景が見られる。彼のライブが強烈に面白いのは、この、gloptinと聴衆の感情のミックスが曲を作り上げているという点である。ついでに言えば、ライブ終了直後、素に戻ったgloptinが、几帳面にフライパンとスティックを回収するのも、また見ていて一興である)

もう1人は、というか1組は、VERONICA VERONICOである。ヴォーカルの鍵子は、曲に感情を込めているか?おそらくある程度は込めている。だが、彼女の歌はそうであってもなお、軽やかさを失わない。重厚でありながら、軽い。彼女がcall meと歌う時、俺は懐かしさを伴って、昔親しかった人に呼ばれた気が、本当にした。鍵子のこの佇まいは、八代亜紀とおそらく全く同じだ。

彼女は、歌の参考としてちあきなおみを聴いて勉強していると言う。さすがだ。ちあきの、一見飄々とした佇まいに、漆黒の人生が隠れており、その事を極力抑制した末に生まれ出る、歌の極意を、鍵子も欲しがったのだろう。俺は鍵子のこの姿勢と歌の深みを、尊敬する。

だからと言って、彼女を支える楽器隊も、技巧的にも精神的にも極めて巧みであり…そう考えると、VERONICA VERONICOとは、4人で八代亜紀なのだろうな…彼らが生まれ育った、昭和歌謡。その真髄は、実は、アンダーグラウンド川の水となって脈々と流れている。

gloptin。VERONICA VERONICO。そして褒め言葉を賜った(ありがとうございます)大西英男…彼らの背後にあった昭和歌謡。これが持っていた「感情とスペース」と、あたかもコインの裏表のように、つかず離れず寄り添う「ポップ」と言う概念。彼らもまた、この事を強く意識していると思われるが、それはまた、別の話である。(文中敬称略)

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