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敵基地攻撃能力について考える

国会閉会後に行われた安倍総理の会見での、ある発言が波紋を呼んでいる。

安倍総理は敵のミサイル発射基地を攻撃し、発射を抑止する「敵基地攻撃能力」の保有を検討する意思を示したのである。

本稿では、この政策の転換がいかに日本の防衛力向上に寄与するかを論ずると同時に、どのような懸念を生じさせる恐れがあるかについても述べる。


敵基地攻撃能力とは?

敵基地攻撃能力というのは、上記でも記したように、文字通り敵の基地を攻撃できる能力のことを言う。

「敵基地攻撃」という表現だけを見れば拒否反応を覚える人も居るかもしれないが、日本と関わりがある、中国、韓国、北朝鮮、ロシア、アメリカなどは当然のごとくこれを保持している。

しかし、だからといって、それは先ほど述べた国々が実際に自分たちが敵と見なす国に対して使うためのものではない。敵の攻撃を抑止するためにあるのである。

もし、自分の国を攻撃したら、それ以上の報復攻撃を行う力があると見せつけることで、相手の攻撃する意志を弱める、又は無くすのが各国が敵基地攻撃をできる能力を持っている理由である。

だが、日本は長い間それを保持することを拒んできた。それはなぜかというと、国民が持つ過度な軍事に対するアレルギーが関係している。

戦中、軍部の暴走により、日本が焦土と化したことで、日本国内では軍隊、軍事を嫌う風潮が出来上がった。そして、当時の日本国民はそれもあってか、軍隊を無くすことに何の躊躇なく、解体することに合意した。
しかし、時代の流れに抗えず、アメリカの要請によって日本は嫌々軍事力を保持するに至った。それゆえ、日本人は軍隊を積極的に持ちいることで自国の安全を担保するのではなく、自国の軍隊に様々制約をかけることで、戦時中のような暴走する軍隊の出現を防ごうとした。専門的な用語で表すとするならば、再び軍事力を手にした日本は「軍による平和」ではなく「軍からの平和」というもの追求した。

「敵基地能力」という言葉が使われるようになったのもその名残である。本来、敵基地を攻撃するためのひとつの手段である、ミサイルは敵を攻撃するために使われるべきものである。なぜなら、それは殺傷性のある武器以外の何ものでもないからだ。

しかし、日本はミサイルが本来、用いられるはずの手段を無視して、他国を刺激させないためという大義名分で、自分で勝手にミサイルの飛ぶ距離を制限して、「敵基地」まで届く距離のミサイルを持たないようした。

これでは、ミサイルが攻撃で使われるのはおろか、抑止力として機能することさえできない。日本は戦後辛うじて、アメリカの核の傘によって他国からの侵略を免れたが、それが無かった場合を考えれば、日本は敵国から見たらただのカモ同然であった。


大量破壊兵器の脅威に対処するために

以上を踏まえた上で、敵基地攻撃能力の保持の是非に対する筆者の意見を述べたいと思う。

筆者は安倍総理が述べた敵基地攻撃能力の保持に対しては条件付きではあるが賛成である。どのような条件に基づいてかは後に述べるとして、まず始めにこの政策のどのようなところに賛成なのかについて説明する。

第一の理由は日本の非現実的な防衛政策を転換する機会になると思うからである。

上記でも述べたように、日本は戦後一貫して、軍隊をいかに弱くするか、いかに他国が日本を恐れないようにするかに重点を置いてきた。

そして、その過程で生まれたのが、専守防衛という原則である。専守防衛という言葉は聞こえはいいが、日本が攻撃されるまでは、反撃できないという意味合いを兼ねている。残酷な表現をすれば、敵の一撃を受けて初めて人が死んでから、反撃が可能であるということである。

この原則があったがゆえに、ミサイルの距離を制限したり、有事の際の自衛隊の行動が著しく制限される事態が発生した。また、日本への攻撃を狙う国に対しての抑止としては機能していなかった。これでどうやって、国民を守ることができるのか?

しかし、敵基地攻撃能力を保持すれば話は別である。実際に攻撃されたとしても、長いミサイルが無いから報復できないということは無くなるし、敵国に対して攻撃を躊躇させることにもつながる。日本の防衛の層がさらに厚くなることにつながるのであれば筆者は進んで敵基地攻撃能力の保持に対して賛成する。

第二の理由としては、一発放たれただけで甚大な被害を及ぼす、大量破壊兵器から国民を保護するためには、受動的な防衛政策では立ち行かないと筆者自身が思っているからである。

第二次世界大戦以後、世界規模の戦争は起こっていない。それを防止している、一番大きな要因が兵器の破壊性が増大したからである。今では、広島、長崎で多数の一般市民を殺傷した以上の威力のある、核兵器が作られており、実際に戦闘で使用できるようにするために小型化が進んでいる。

また、生物兵器や化学兵器の被害の危険性、拡散の懸念も問題視されている。中国の武漢市から広がった、アメリカの一部の識者が指摘するように、コロナウィルスが仮に生物兵器なのであれば、生物兵器が与えるインパクトは核兵器以上のものがあると言えるかもしれない。
そして、これらの兵器は総じて大量破壊兵器と呼ばれているものである。一回でも使用されたらその時点で国家が存亡の危機に陥る兵器である。

日本の近隣の国々である、中国や北朝鮮はこれらの兵器を実際に保持しており、それらの兵器が搭載可能なミサイルも配備している。日本が直面している大量破壊兵器の脅威は全く非現実的なものではないのである。

この現状を考慮すると従来の受動的な防衛政策では限界があることが分かる。国家を滅亡の危機に陥れる兵器を持ち、且つ日本に対して敵意を持っている国々が、その兵器を我が国に使用しないという保証はない。

それを絶対にさせないという強い意志をそれらの国々に示すためにも敵基地攻撃能力は必須である。そして、それがいざ日本に向けて発射される事態が発生すれば、発射されるまえに敵基地を攻撃して、その兵器を無力化する手段も同じく必要である。


非戦闘市民を殺傷した場合責任は取れるのか?

上記で長々と説明したように、筆者は日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増している今だからこそ、抑止力を高めるために敵基地攻撃能力を日本が保持することに対し賛成である。

しかし、敵基地攻撃能力の導入に際して条件がひとつある。仮に敵基地、軍事兵器を攻撃したつもりが、非戦闘市民を殺傷した場合に責任が取れるかどうかである。

平時に人が人を殺傷すれば、それは罪に問われるし、最悪の場合は死刑が宣告される。しかし、有事で軍人が軍人が殺傷しても、その行為は殺人とは新式されない。その理由は軍隊が国内法とは別の法体系で動いているからである。もし、仮に自分が軍人であり、殺されそうになってるのに、国内と同じ制約を課されていれば自分の命を守ることが出来ないし、任務を遂行することができない。それゆえ、軍人は限度を超えない限りは何でもして良いという法体系になっている。
その限度について、より具体的に言うと、戦争犯罪を犯さないことである。戦争犯罪の一例は民間人の殺傷が当てはまる。そして、仮に民間人が殺傷された場合、それを行った軍隊内で裁判が行われて、戦争犯罪が裁かれるに至る。

問題なのは、日本が自衛隊の戦争犯罪を裁くための、このような特殊な法体系を保持していないことにより、他国がそれに付け込んでくる懸念があるということである。

もし、北朝鮮が核兵器を搭載したミサイルを放とうとしている情報を日本が掴んだとしよう。そして、そのミサイルが放たれようとしている基地に対して、国内への被害を未然に防ぐために日本国内からミサイルを発射して、そのミサイル基地を破壊したとしよう。

その後、北朝鮮が日本のミサイルによって民間人が大量に発生してしまって、責任を取って欲しいと主張したらどうなるか?仮に民間人の死傷者が嘘であったとしても、日本が戦争犯罪を裁く法体系を持たない、無責任な国だと北朝鮮が国際社会に対して宣伝することによって、日本が逆に悪者にされてしまう可能性が出てくる。

戦争犯罪を裁くこと法体系が無いことで、国民を守るために必要なことをした日本の行いが外交問題化して、敵国の野蛮な行いが正当化されてしまうのである。

敵基地攻撃能力を持つということは、それによって発生する問題に対しても気を配らなければいけないということである。

まとめ

日本を取り巻く安全保障環境は年々厳しくなっている。北朝鮮は順調に核兵器搭載可能なミサイルの精度、技術を上げており、中国は尖閣諸島、台湾を自分の勢力圏内に入れ込む機会を虎視眈々と狙っている。
そして、日本が戦後自らの国の安全を守ってもらっていたアメリカは国内の混乱により、国外で積極的にリーダシップを取る気力を無くしている。

そんな状況だからこそ、アメリカ頼みの受動的な防衛政策ではなく、日本が主導的な役割が担える積極的な防衛政策への転換が望まれている。

しかし、長い間、日本で現実的な安全保障の議論が軽視されてきたこともあり、その転換はなかなかスムーズにはいかないであろう。

それを乗り越える上で我々は武器は二面性があるものであり、それは攻撃的な用途で使用されると同時に防御的な意図でも使用されるということを、まずは認識しなければいけない。

それが、「敵基地攻撃能力」の是非を議論する上での出発点になると思っている。


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