見出し画像

白か黒かを決めず、自分のグレーを作り出す人生にするには

白か黒、のように「二つのうちのどちらか」を選ぶ人生は簡単だけれども、居心地が悪いようにも思う。本当は世の中は、白でも黒でもない、一言で片付けられないような、グレーなことだらけなんじゃないか。

「男か女か」とか、「結婚か仕事か」とか、「国内か海外か」とか。人は「単純化本能」や「分断本能」を持っているから、勝手に頭が物事を二択で捉えていて、二者のうちのどちらかを選ばなくてはいけないような気になっている、ということがよく起こる。

実際には、多くの物事が単純に「二択」では分けられないはずなのだ。

男女だけではない性の概念を持つ方もいるし、人生が結婚と仕事だけで構成されているわけでもないし、日本にいながら海外とつながることだってできる。

なぜこんなことを考えたのかと言えば、「歴史」も私たちが勝手に単純化して捉えている部分があるんじゃないか、と思ったから。

「昔はよかったな、こんなに複雑な社会でなくて」と思ってしまうことがあるけれども、勝手に私たちが「昔を単純化している」だけなのではないだろうか?

たとえば。

武士と町人以外は、ほとんどが「百姓」で、田んぼか畑を作っていた、と言われれば多くの人は違和感を持たないと思う(私もその通りだと思っていた)が、「百姓=コメ、穀物」だけではないようなのだ。

実際には百姓の中でも、漁民、山の民、廻船人、とか色んな人がいたという事実があるらしく、そもそもそれ、「百姓」と一括りにしてしまって良いのか?と思った。


そして何となく、「男尊女卑」なイメージを持つ日本の歴史も、言われてみればこんな見方もできるのだ。

女流の文学が『枕草子』『源氏物語』以来、十三世紀後半の『とはずがたり』、十四世紀の『竹向が記』まで連綿と書かれている
・・・前近代に女性がこのようなすぐれた文学を多く生み出した民族が、はたして世界にあるのかどうか。

単純化して、何となく「決断」した気になって、分かった気になって。歴史もそうだけれども、私自身も無意識にそんな瞬間を繰り返してきたかもしれない。

では「自分のグレー」を作り出すにはどうしたら良いか?

それには、一朝一夕には得られないような、心のしなやかさが必要だと思っている。

選ぶ理由も大事だけれども、白も黒も「選ばない理由」にはもっと重みがある。重みがなくては、きっと自分のグレーは作れない。いつの間にか白か黒に染まってしまうから。

その重みへの耐久性のある、しなやかな心が、自分の正しいと思う世界を見るためには、実は一番必要なものなんじゃないか、と思う。

自分から「歴史をよみなおしてみよう」という心のしなやかさは、まだ、私にはない。

読んでいただきありがとうございました😊 素敵な一日になりますように!