見出し画像

情報の波に飲まれず、花となるために。

世界中が、なんだか騒がしい。情報が錯綜し、混乱し、文句を言い合ったり、明らかに間違った行動も見受けられたり。

今、そんな混乱が「新型コロナウィルス 」によるものとされている。その通りだと思う。その通りだと思うのだけれど、冒頭に書いた「情報が錯綜し、混乱し、文句を言い合い・・・」というのは、なにも今に限ったことではないと私は思うのだ。

コロナウィルスによってより色濃くそれが映し出されているだけで、最近の世の中は常に、「情報が溢れすぎて、何をどう信じてどう考えて、解釈すればよいのか?」の混沌状態なんじゃないか。

だから多くの人が、「自分はこのままで良いのかな?」「本当に今の仕事で良いのかな?」「何かしたいけど、何をしたいのかわからない」、と自分のことを考えるハードルが日々高くなっているような気が、する・・・。

不穏な空気に私もわかりやすく今月はイマイチ元気がなかったのですが、約600年も前に書かれた古典の中で、心に留めておきたい、今必要だなと思う言葉を見つけました。

住するところなきを、先ず、花と知るべし。

ダイレクトに言ってしまえば、「前提として、一つの場所に安住しないということが花(大事)であるということを知っておくべきだ」ということ。

騒がしい世間の中で何となく、自分の心もソワソワしていて、そんなときはつい「安定」とか一つの場所にとどまるとかいうことを考える。心をソワソワから元に戻したい、と思う。

でも、そう考えること自体がストレスになっているのかもしれない。住む場所が決まっていないことが、花。それは、世に能楽を広めた世阿弥の室町時代ですら、そうだったのだから、こんなに情報過多で状況の変化が早い今、一つの場所に居続けようとすることの方が困難なのだ。

どんな世の中になったとしても、「自分なりに考えて道筋を見つけて、進んでいく人(=住するところなき)」が幸せになれる。それは、何も「会社をつくろう」「世界一周しよう」のような大きな道筋である必要はなくて、「こう思ったから、この人に会ってみよう」「こう考えたから、この本で調べてみよう」のような、ちょっとしたことからの始まりなのではないでしょうか?

と言っても、その「ちょっとしたこと」をやることが非常に、とっても難しい。もう、どうしたらいいのか、わからない。

なぜなら、そんなトレーニング、受けたことがないから。ごく普通に公立の小中学校に通っていた私は、つめこみインプット型教育が中心で、「嘘か本当かわからない、大量の情報(と意見や文句、解釈がゴチャゴチャに混ざっている)の中から自分なりに道筋をたて、考え、行動する」なんてどーやってやるのよ???????状態なのです。

そんな私でも、自分なりに考えてみました。

今必要だなぁと思ったのは、人と話して「曖昧な何か」を自分で考えて道をつくっていくことだと思いました。そのために誰かにアドバイスをもらう、コンサルティングしてもらう、とか難しいことは考えず、単純に会話がしたい。



最後に、世阿弥の言葉を。花というのは、面白いことであり、珍しいことである。

花と、面白きと、めずらしきと、これ三つは同じ心なり。


↓こちらもおすすめです。



読んでいただきありがとうございました😊 素敵な一日になりますように!