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ルビー手芸店の月並みで愛しい日常⑥(物語)

涼しい朝の風が吹き抜ける1日の始まり、以前ルビー手芸店で働いていたマノンが大きな袋を抱えてやってきた。みすずは、店の棚にハタキをかけているところだったが、袋の中身が何かは分かっていた。紺のタンクトップにベージュのつなぎ姿のマノンは、アトリエで老眼鏡をかけてミシンを準備している店主のセシルの所へ行き、袋から大量のズボンを出して作業台に積み上げた。
「随分とたくさん持ってきたわねぇ。早く臨時でやってくれる縫い子さんを見つけてよ」
セシルは一枚一枚、裾上げの印を確認しながら言った。夏のセールの真っ最中、マノンのお直しの店には注文が殺到していて、昨日、手伝ってほしいと電話があったのだった。
「これは大変だわね。でもお店が順調ってことよね」
みすずは掃除を終えてアトリエに合流し、ズボンの山を見て言った。
「暇すぎて不安で眠れない時もあったのに、今は長めに伝えている締切に間に合わないかと思ってプレッシャーの毎日よ。1人でやってくのって本当大変。みすず、うちで働かない?」
と目の下にクマを作った顔で冗談めかして言い、
「ちょっと!有能なスタッフなんだから横取りしないでよ」
とセシルがハサミを使いながらもしっかり聞いていて割って入った。みすずは笑って、何とかなるよとマノンを励まして店を送り出した。いつも強気なマノンがみすずに弱みを見せるのは初めてのことだった。

ポツポツとお客が続いたが、みすずが1人で対応できたので、セシルは午前中はずっとミシンを踏んでいた。みすずが昼休みのために一旦店を閉めると、セシルもアトリエを出てきて体を伸ばした。
「これから出るんだけど、16時ごろには戻ってくるから」
と言って、セシルが店を出て行こうとドアを開けると、知った顔の男性が来ていた。
「あら、パトリック、またコンサート?」
時々コンサートの告知を置きにくるミュージシャンだった。
「いや、みすずは今日はいるかなと…」
とお店を覗き込んだので、セシルは
「いるわよ。みすず!パトリックよ」
とアトリエの片隅でランチを広げようとしているみすずに声をかけた。
「あら、昼休みなんだけど…」
と立ち上がってセシルを見ると「入って入って。私は行くわね。またあとでね」と、そそくさとお店を後にした。2人だけになって、みすずはコンサートのチケットをもらったことを思い出し、
「この間はチケットありがとう。いいコンサートだったのにお礼を言いそびれて」
と言いながら、あの夜は何か気まずい思いをした気がすると思ったが、もう記憶の彼方に飛んでどうでもいいことだった。パトリックは、
「いや、どういたしまして」
と言ったものの、特に用事があるのかないのか何も具体的な話が出ないので、みすずは作って持ってきたハムとブロッコリーのパスタが入った弁当箱を指さし、
「失礼して食べてもいいかしら?」
と聞くと、
「もちろん」
とパトリックが言って、みすずはアトリエに戻って座ると手を合わせてから食べ始めた。
「美味しそうだね」
と言うパトリックに、みすずは
「それで何か御用だったかしら?」
と聞いた。
「特に用事ということはないんだけど…コンサートには来てくれないかと思ってたから、嬉しかったんだよね。気に入ってくれたみたいだったね」
とみすずのお弁当袋の柄を見ながら言った。
「楽しかったなぁ。セシルとその友達もノリノリだったのよ」
みすずは思い出すように、遠くを見て言った。
「よかった」
とパトリックはみすずを見て言い、視線を戻したみすずと目が合ったが、そのままみすずの視線はパスタにうつり、フォークで刺してモグモグと食べ続けた。パトリックは視線で男女の駆け引きを試みたつもりだったが、みすずはまるで無反応だったから、少し咳払いをし、まるで明日の予定を聞くようなトーンで、
「あのさ、みすずは付き合ってる人いるのかな?」
と率直に聞いた。みすずは
「いない。私、恋愛に興味がないのよ」
とお弁当箱に残ったパスタをフォークでかき集めながら言った。パトリックは少し目を見開いてみすずを見たが、
「そうなんだ」
と納得したような顔をした。その後、みすずがマグに入れてきたお茶を飲んでいる間、パトリックはコンサートで行った欧州各地の旅の話をし、旅の人生だから彼女ができても続かないとも言った。みすずは旅行の経験があまりなく興味深く聞いた。ハッとして天使の顔のついた掛け時計に目をやると、そろそろ開店の時間だった。「もう片付けなくちゃ」と言うと、パトリックは「じゃあまたね」と言って帰って行った。みすずは、パトリックは音楽家として夢を叶えていると言えるけど、旅の日々はなかなか大変そうだとお店を開けながら思った。どんな人がパトリックのパートナーになれるかしら?と少し考え、自分の母と父が仕事の場所が違いすぎて一緒に暮らすことが叶わなかったことを思い出した。

夕方になってセシルが戻り、みすずは休憩しに外へ出た。いつものカフェに行くと、そこで働いている友達のシドニーが炭酸水を持ってテーブルにやって来た。ちょうど退勤したところだった。みすずがパトリックがお昼にやって来たことを話すと、シドニーは
「やっぱり。チケットをくれたんだから、みすずに興味あるに決まってるって言ったじゃない!」
と自分の予測が当たっていたことを強調した。
「そうなのかなあ。恋愛に興味ないって言っても驚かなかったみたい」
みすずは、本当は少しドギマギしていたけれど、パスタを食べていたことで平静を装って言えたことを思い出した。
「みすずは誘惑のオーラみたいなのを全く出してないから、最初から脈なしとは思っていて、みすずの答えを聞いて納得したのかな」
というシドニーの推測だったが、みすずはそう言う事はよく分からなかった。

お店に戻る時間が迫って、何気なく携帯電話をチェックすると母からメールがきていた。何の用事だろうと座り直してメールを開けてみると
『今フランスにいます。金曜にそちらへ行く予定。ホテルのロビーで待ってるから会社が終わったら一緒に夕食に行きましょう。レストランは予約しておきます』
と書いてあり、ホテルの詳細が添付してあった。みすずは突然のことで3回メールを読み直さないと意味が分からなかった。表情を固くしたみすずを見てシドニーが
「大丈夫?なんかあった?」
と心配そうに聞いた。みすずは
「母がこっちに来るって。金曜」
と画面を見つめたまま言った。シドニーはみすずが母に対して大きなコンプレックスを抱えていることは承知はしていた。
「どうしよう。会社を追い出されて手芸店で働いてる事言ってないの」
「立派に1人でやってるんだから、文句を言われる筋合いはないと思うけど?」
「文句っていうんじゃないのよ。多分こういう感じ。『あなた、ずっと1人でいるんでしょう?お給料はいくらもらってるの?住まい、老後、どう考えてるの?』って」
シドニーは目を丸くして
「えー!何とかなるよね。でも親って子どもの心配はするもんよ」
と言い、
「それにさ、みすずはお母さんが会社人間で冷たい人って言うけど、みすずを養うために仕方なかったかもよ。もうお母さんに言い訳しなきゃいけない年齢でもないんだし、大人同士として話をしてみたらどう?」
と付け加えた。みすずは、今まで友達がいなくて、1人で考えているしかなかったから、シドニーの言葉を聞いて、友達がいると、全然違う視点で自分の人生を見てもらえるんだと開眼した。シドニーの意見には賛成する部分とそうでない部分があった。母が仕事が好きな会社人間という自分の考えに間違いはないと思うが、母と1人の大人として向き合えばいいという意見には力づけられた。自分なりに生きられていて、母が何をどう思おうと、今日の1日のようにいい人達に囲まれて幸せだってことに自信もついてきた。母と大人としてよい距離を築きなおせるだろうか。
すると、みすずの頭にある疑問が浮かんできた。母って、幸せなんだろうか。母にも悩みを話せる友達っているんだろうか。パートナーがほしいと思わないんだろうか…そして母を知ることは、もしかしたら自分を知る事に繋がるかもしれないとも思った。金曜日は勇気を出して母に問いかけようと決めた。母がすべて正直に答えてくれるかは分からないけれど…

この物語はフィクションです。
第6話終わり


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