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川端康成「雪国」私の感想

最初に思い浮かんだこと

川端康成が、なぜノーベル文学賞を受賞したのか理解できた気がした。それほどの衝撃があった。複数のテーマが含まれている作品であると思うが、一番底に流れているテーマは「富めるもの(甲)と貧しきもの(乙)の対比」だと思った。其れが通奏低音という表現でも当てはまる。
真っ先に、この小説を読んだに違いない政治家が頭に浮かんだ。というより、その政治家、田中角栄氏が、この小説に関して言及していたという記憶があった。Google で検索するとその記憶は簡単に蘇った。この記憶がアンカリングになってしまったことは否めない。島村が甲世界、駒子が乙世界に属しているのは明らかである。作者は甲乙対比を明示的には表現していない。「国境の長いトンネルを越えると、雪国であった。」という描写は、甲世界から乙世界に移動したことを暗示する。また雪は乙の何かを覆い隠すシンボルであるかも知れない。

駒子の「あなた、私を笑っているでしょう」

「あなた、私を笑っているでしょう」という駒子の台詞は何回か繰り替えされるキーワードである。また島村が何をどう笑ったと思ったのか駒子による説明はない。あまりに被害妄想的な言い分だな。と読者は感じるが次第にその理由がわかるようになってくる。

左手の人差し指が覚えている

なんとエロい表現なんだ。よくも検閲とかで引っかからなかったものだ。当時はチャタレイ事件とかがあって、どこまでが猥褻なのか裁判所が判断するという時代であった。よく通したものだと思う。

雪国の「ユキ」男さん

発音が同じであるのは、川端康成の意図だろう。雪国の「ユキ」と行男の「ユキ」は乙世界での共通項、共通の意味があると解釈できるのではないだろうか。

登場人物の名前について

「ユキ」男さんがきっかけで気づくのだが、登場人物は「島村」、「駒子」、「葉子」、「行男」、「お師匠さん」と登場人物の呼称が分かれている。「島村」には下の名前が無い。家族のつながり、たまたま親からの遺産で今の生活が成り立っていて、本人の力で生きている訳ではない。一方、雪国に暮らす人々には名字が無い。本人の力で生きている。「お師匠さん」だけがその生きる力の根源を示されている。凝った仕掛けと思う。

駒子の部屋の調度と初めて関係した時のこと

駒子の暮らす乙世界の家や部屋に対して不釣り合いな甲世界の家具調度があることが示される。駒子が初めて酔って島村の部屋に上がり込んだとき、続かなかった東京時代の生活を取り戻せないか。という気持ちがどこかにあったのではないだろうか。島村にしてみれば、そういう気分であったことは伝えていたし、当然の行いをしただけということなのだろう。妻子もいるのにしょうもない男である。

駒子の生活における「お金」

さて、いよいよ本題に入ろう。駒子のお金に関わる話は2箇所ある。一つは、島村の部屋に滞在する時間に比例する宿屋の勘定書であり、もうひとつは駒子がひと月にいくら稼げるのかという話
前者の「十一時間くらいにしておいてちょうだいと駒子の返事が聞えた。十六、七時間はあまり長過ぎると、番頭が思ってのことかも知れない。」は、島村目線だから、さらっと書いてあるけれど、顧客の足を遠ざけないようにと番頭と駒子の意図アリアリとも解釈できる。
島村の部屋で駒子が稽古をし、それに圧倒されるシーンは物語の中の印象深いシーンであるが、嵩張る道具を自宅から運んでくるのは葉子である。なぜ葉子が運んでくるのか?
元々は島村が言い出したことなので、駒子は堂々と部屋で過ごせる。懐に入る実入りも増え、それは葉子が看病している行男の療養費となる。二人の女性は共犯関係と読んだ。

君は、いい女だ

駒子は、島村に対し、身体の関係を許せる男性であると同時に上記のような事情から離したくない顧客でもある。この二重性が駒子を苦しめ、いきなり「明日、帰りなさいよ」と唐突に言ってしまう場面がある。島村の懐に思いが及ぶ自分を嫌悪し、出た言葉だと思った。
甲世界の男から見た「いい女」は、乙世界の駒子に取っては屈辱で「くやしい」とも言っている。これをそのように受けとると「あなた、私を笑ったでしょう」という理由も理解できる。

葉子と駒子の関係

葉子、行男、駒子と島村の関係を時系列に並べてみると

  1. 駒子が東京に行き、行男が駅で見送る。

  2. 行男が東京の夜学に通い始める。(駒子を追いかけたか?)

  3. 駒子は東京での身請け人が亡くなり生活が続けられなくなったので、故郷に戻ってくる。そして島村と出会い関係する。まだ芸者には成っていない。

  4. 東京で暮らす行男は病気に罹患して治療費が必要な生活となる。

  5. 駒子は、行男の治療費工面のため、芸者となる。

  6. 島村の2回目の訪問時、病気の行男と看護の立場である葉子が同じ列車に乗り合わせ、物語はそこから始まる。この時、芸者になっていた駒子も駅にいた。

  7. 葉子には弟がいて、駅で働いているので、この地の出身と思われる。

  8. 行男の母の家、そこでは駒子も暮らしていたが、行男は、そこで最期の時までを過ごすことになる。葉子がどこで暮らしていたのかは記述がないが弟がいるので、別の家であることも考えられる。

  9. やがて行男は最期の時を迎え、その後、母親も亡くなった。その家に住めなくなった駒子は引っ越しする。

  10. 島村の3回目の訪問時には、行男と母親は鬼籍で、葉子は二人の墓まいりをする生活になっている。既に「気がちがう」状況であったのかもしれない。

こうして眺めると、葉子は駒子の周辺の二人の男性、行男や島村との関係の間に割って入ろうとするかのようである。島村が滞在していた宿で下働きを始めたということもあった。島村との会話では、その一端も見せるが、すぐに思い直して駒子思いの発言をする。二人の女性の関係にも「親密さ」と「敵対」の二面性がある。

繭倉の火事(ラストシーン)

「ユキ」の存在が無くなった後、本来であれば、もう駒子はフリーで動けるはずである。ところが島村の方は、そろそろ逃げの姿勢に近づいている。突然の繭倉の火事により、物語を支えていた葉子が突然いなくなり、駒子にも、火事が暗示する災難が待ち受けている。そのラストシーンから想像してほしいということなのではないかと思った。

人間の二面性

面白さの根源は登場する女性二人の二面性なんだろうと思う。気になる女性それぞれが二面性を備え、直前に言ったことと正反対の事を言って来る。コロコロと性格が表裏入れ替わるようである。また、駒子と島村の会話も噛み合わない場面が多い。
しかし、そこに甲乙世界をつなげる「お金」を含めて眺めると、ああ、そういうことかという解釈ができる。あくまでも解釈のひとつであることを断わっておく。

最後に

非常に生臭い感想である。日本語としてはたいへんな美文なので、もっと美しく解釈することも読者の自由である。この重奏性がこの小説を魅力的にしているのだと思う。
この「雪国」のあとに川端康成が少年時代に自分の祖父を介護していた際の日記である「十六歳の日記」を読んだのだが、その中に「(祖父の)尿瓶の底に谷川の清水の音がする」という文章が出てくる。十四歳の少年が日記の中でこのように書いている。醜悪に見える場面であっても、それを美しい情景にコンバージョンしてしまう。そんな言葉の使い回しができる作家なのだ。




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