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ダチュラノワール

ダチュラノワールを購入したとき、私は失恋していたらしい。
「らしい」なんて、ひとごとみたいだが、そうとしか言いようがない。

購入から数年後、もうダチュラノワールを使い切りそうになっていたある日、私は不思議な人に出会った。
身体から、他人の過去を読み取る人。マッサージの達人で、体のちょっとした癖や筋肉のコンディションから、その人の性格や過去を読み取れる人。私は施術を受け、趣味特技や現在の仕事への思いなど、すべて当てられた。ただ一つ、すぐにはピンとこなかったのが、「〇年前、失恋したでしょう。その傷を体が覚えています」という言葉。失恋???その時期、私には彼や好きな人はいなかったはず。
「ほらここの筋肉だけハリがなくなっているでしょう。これは失恋した女性の特徴です。男性はこうはなりません」
 でも、施術を受けながら思い出した。焼けつくようなあの思い。朝目を覚ましてすぐに思うのはその人のこと。あの人は私を愛していない・・・そんな、胸が締め付けられるような、おなかの中が空洞になるかのような思い。そう、たしかに〇年前、私はそんな思いに苦しんでいた時期があった。本当に苦しんでいたのはたった3、4ヶ月間のことではあるが、その時間を過ごしていたときは永遠のように感じたものだ。
 とはいえあれが失恋だったなんて。私は知らないうちに恋をして、知らないうちにそれを失っていたということか。恋していたつもりはなかった。でもどんなに言い訳しようと、あの痛みは失恋として体に刻まれたのだ。私の身体はあの痛みを失恋だとみなしたのだ。

 そう、確かに私はあの人のことを思って、あの人の気を惹くために、そしてライバルを蹴落とすためにダチュラノワールを選んだ。セルジュ・ルタンスのページの詩に心を奪われて。

Datura noir
ダチュラノワール
黒のダチュラ

豪奢に咲く、ダチュラの白い花。
世界のあらゆる場所で、さまざまな儀式に使われてきた花。
自ら強いパワーを放ち、周りのエネルギーを吸い込んでさらに魅力を増す。
ひとをひきつけ、また惑わすような、比類の無い香り。

[心を奪うような花と果実の香り]
ダチュラ、ビターアーモンド、ヘリオトロープ、チュベローズ、ブラックバニラ

(公式サイトより)

私はありきたりな職場で、ありきたりな先輩の下で働いていた。そんなとき、新しくきた女性がいた。その女性は過剰なおべっかとわざとらしい笑顔で、先輩の関心を私から奪っていった。
最悪なことに、彼女はそれを、単に自分が職場で生き残るためだけでなく、私への楽しい嫌がらせも兼ねてやっているのだった。

私は職場での自分の立場が弱くなる感覚を覚え、生まれて初めて「本物の不安」を味わった気がする。こちらも配置転換後間もなく、まだまだ仕事を覚える必要がある。だからまだ先輩の関心が必要なのに。このまま居づらくなってやめるはめになったら?この職場での待遇だけでなく、この分野で自分の実力を活かして稼ぐ能力があるのだと自信を持つ機会も奪われるの…?

そんな私の思いを知ってか知らずか、彼女は先輩とした会話、先輩がどれほど自分を気にかけているかを、わざとらしい笑顔で楽し気に私に語り掛けてくる。私に同情するそぶりを見せてくる。

生活の中で唯一かつ最大のストレスが彼女だった。彼女への憎しみが大きすぎて、その裏に潜んでいた自分の様々な感情に気づけなかったのかもしれない。

行かないで。あなたに見捨てられたら私は生きていけない。

昔の演歌などでは、そんな女の心情が歌われる。ほとんどは男が書いた歌詞だ。男はそれを自分への大きな愛情と捉え、すがられる自分を重要人物だと勘違いして満足に浸りたいのかもしれない。でも考えてみれば、昔の女たちがそんな、すがるような感情を抱いたのは、愛情からでなくむしろ単なる死への不安からだったのではないか??いわゆる「昔の女」には働く権利が与えられておらず、男に見捨てられたら実際に死んでしまい得る存在だったのだから。

しかし、働く権利を与えられ、実際に働きながらも、私は職場で権力を握る目上の存在を、自分を生かしてくれる存在とみなし、すがるような感情を抱いていたのだから笑える。

女のプライドって何だろう。
美しいこと?それとも男に愛されること?
私は女のプライドのうちの一部、つまり、相手に上手く依存して思い通りに操って生き残る能力を懸けて戦っていた気がする。
そのプライドを彼女に刺激されたから、あんなにもむきになっていた気がする。

ある日スイッチが入った。
あまりにもみじめな気持ちになりすぎて、反動で闘志が沸き上がってきた感覚だった。

奪われたからには奪い返してやる!たとえそれができなくても、楽に奪い去ることは許さない。私を弄ぶことは許さない。このままで済むと思うなよ。
私から吸ったエネルギーを吸い返してやる!
そう心の中で叫んだ。

そして頭に浮かんだのが香水をつけるというアイディアだった。

人はいつでもストーリーを必要としている。
私は、ダチュラノワールの「心を奪う」というコンセプトが気に入った。
「周りのエネルギーを吸い込」むというフレーズも。
あの女がこれまで私から吸い込んだエネルギーを吸い返してやる、という思いだった。

そうして、誰の心を奪いたいのか、自分のなかでもはっきりしないまま、私はダチュラノワールの香りを試し、気に入って、購入した。

吸い込まれるようなあの香り。
ダチュラノワールをまとった自分の肌の香りを吸い込むと、不思議なことに自分のほうまで吸い込まれるような、不思議な感覚になる。

詳細は割愛するが、結果的に私は先輩を奪い返した。だからなおのこと、あのときの痛みを失恋として結びつけることができなかったのかもしれない。

あれは恋だったの?
私の感覚では、単にすがるような心境になっただけ。単なる生存への不安と、新入りの女が男を転がすスキルへのちょっとした嫉妬と、その女の優越感丸出しの笑顔に対する嫌悪感。それらを振り切るための、「私を選んで!」という切望。

それが「女の性質」なのだとしても、別に良い。
だって心を奪えば良いのだから。
そう思えるのは、ダチュラノワールのおかげかもしれない。

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