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水子供養ビジネスはいつ始まったのか

1.結論

水子供養ビジネスは、100年、200年といった歴史のあるものではない。1970年代後半から80年代前半、本格的に誕生した。

それは胎児の写真、エコー、胎児モニターなどの医療技術進化という胎児の「見える化」が寄与した側面があった。さらに新興宗教の勃興と軌を一にしており、当該宗教団体の収益源となった。

しかし純粋に新興宗教側の意図的なものとはいえず、女性側が求める側面もあり、堕胎の悲しみを表象している。


2.背景


2-1.宗教と社会の関わり

現在、宗教団体と政治、社会のあり方が問われている。この原稿は特定団体との連関性を表現するものではない。

ただ、一連の記事に「霊感商法」が用いられ、人びとがふたたび知ることになった。この単語は“先祖の因縁や霊の祟り、悪いカルマがあるなどの話を用いて不安を煽り”特定の商品を買わせるもので詐欺罪や特定商取引法違反に問われたものだ。同時に、現在でも各種の団体への被害届が頻出している。

いくつかの記事の中で、ある団体における「水子供養」商法がいまだに問題となっていると知った。水子とは、中絶・流産・死産によって亡くなってしまった幼子を指す。その幼子を供養するために多額の費用を請求されたという。

そこで、私の記憶が蘇った。


2-2.個人的な経験

私は幼い頃の記憶がある。私が祖父母とともにテレビを観ていたときだ。おそらく40年以上前だと思う。テレビでは水子の祟り(たたり)について述べていた。するといつもは静かな祖父が「こういうのは全部インチキだ」と私に教えてくれた。

私の祖父は学歴がないものの、森羅万象を調べる相当なインテリだった。しかし私はそのとき、その怒りは何かをわからずにいた。その記憶が今回の原稿執筆につながった。

ただわかってきたのは、祖父の言う通り「インチキ」かもしれないものの、それだけでは片付けられない複雑性だった。


3.間引きの歴史


3-1.間引きの史実

史実として、日本では多くの中絶が行われていたと知られている。また貧しい農村では、誕生とともにお産に立ち会った産婆が殺める場合もあった。それは「間引き」といわれた。これは語源から、農民的な用法だったといえる。というのも、「間」を「引く」とは、野菜の栽培から出来している。

野菜栽培の関連語に「間引き菜」がある。これは野菜を栽培している際に、育ちの悪いものを取り除いたことを意味する。貧困の家庭にあって、すでに数人の子供がいる場合(いない場合も当然あった)、育児の不安、あるいはさらに貧困になることを恐れて、やむやき決断をした。

もともと水子は、「稚子」とも書いていた。この単語は“若い”を意味する。若いが、どうしても、海に出すとか、川に流さざるをえないことがあった。経済的な理由がほとんどだった。水子は、水と重ねた移ろいやすさと悲しみを示した。

3-2.間引きと女性の悲しみ

母親は、産婆に事前のお願いをした。「死産だということにしてくれ」と懇願したのだった。すると産婆は悲しみの中で決断を迫られる。産婆は水で濡らした小さな紙片で、生まれたばかりの幼子の鼻と口を覆う。幼子は産声を上げることも叶わずに死に至る。

ここに立ち会っているのは、母親と産婆という二人の女性である。このようなエピソードにあふれた恐山(青森県下北半島)には、胎児だけではなく母親や産婆にひろがる悲しみの逸話が多く残っている。この世への執念に満ちており、安らぐことが出来ない無数の魂が恐山に集まっている、と記した書もあるほどだ。

産婆も悲しみ、母親も悲しんだ。母乳を飲む胎児が不在となり、母親からは母乳溢れ出し、それで濡れた赤い布のよだれかけを地蔵像の首に巻き付けたエピソードもあった。

東北地方のこけしも、おなじような悲しみを背負っているのかもしれない。もともとこけしは子供の身代わりになって不幸を引き受けてくれる存在ではあった。しかし、同時に水子供養の意味があったのではないかと推測される。

「水子供養ビジネス」ではなく「水子供養」そのものは、それが宗教的な儀式に沿っているかは別問題として各地で行われてきた。不本意な形で生を受けなかった、あるいは生を中断させてしまった悲しみ。どんな形であれ母親らが供養した心情的な背景は当然のように理解できる。

ちなみに、江戸時代や明治時代に、悲しき運命を辿った胎児や幼子に供養を行ったのは、地蔵講だったとされる。この地蔵講は、各地の無名の女性たちが自然的に集まっていたものだ。


4.水子供養の発見


4-1.避妊実施率と中絶率の推移

ところで戦後になると悲しみが減少していったかというと、そうではない。ここでややショックな数字を引用したい。


<避妊実施率の変化(1950-1992)>
1950年:19.5%
1961年:42.3%
1971年:52.6%
1981年55.5%
1992年64.0%

(毎日新聞社人口問題調査会編『記録 日本の人口――少産への奇跡』)

この引用文献は「少産への奇跡」というタイトルがついているものの、1950年からの避妊率の低さに驚愕させられる。

次のデータを見てみよう。

<出生数に対する中絶率(1950-1989)>
1950年:20.9%
1960年:66.2%
1970年:37.8%
1980年:37.9%
1989年:37.4%

(毎日新聞社人口問題調査会編『記録 日本の人口――少産への奇跡』)

同じ文献から引用した。それにしても驚くのは、「出生数」に対して、中絶されて生まれてこなかった胎児が相当数存在する事実であり、さらには過去の率が異常であることだ。もっとも「異常」という評価自体が主観的であるのは疑いえない。それにしても、1960年には実に66%を超えている。

この理由はなんだろうか。

過去の文献を読んでいると、日本の男性はコンドームを使おうとしない、という記述が目立った。この真偽や国際比較はできないが、事実として女性が妊娠し、中絶の選択をしているのは事実だ。


4-2.歴史的な経過

1948年、優生保護法案が衆参両院を通過。1949に施行された。1949年には経済的困窮を理由にした中絶を認める事項が追加。さらに1952年に改正され中絶の判断は認定医の自由裁量に任された。

興味深い、というと不謹慎なので言葉を選ぶ必要がある。ただ、数多くのカップルが中絶を経験した戦後からしばらく経った時期でも水子供養ビジネスは存在していなかった。

影響を与えた要因はいくつかあるが、その一つに1970年以降の医療技術の進化がある。胎児写真、エコー、胎児モニターの医療技術が誕生した。これにより、“両親”たちは胎児を「見る」ことになった。いわゆる「見える化」が“両親”の精神に影響したのは想像に難くない。

胎児が一つの人格として意味をもつようになった。独立した命を有するものと再認識されることとなった。さらに、一般の人間と同じく扱うべきであるという感情が当然となった(なお私は事象として書いているが、この考えを否定するものではない)。

ふたたび引用すると1970年代は避妊実施率が1971年:52.6%、中絶率が1970年:37.8%と改善してきた時代ではあった。しかし、「改善しているのにもかかわらず、中絶を行った」ことへの罪の意識が醸成されるのは当然ともいえた。

さらに「見える化」の効果は、過去に中絶を実施した女性たちへも“波及”した。過去の罪を意識してしまった女性たちは、いてもたってもいられずに過去の罪から逃れたくなった。中絶を選んだ当時は経済的、あるいは環境的にやむにやまれぬ決断だったに違いない。しかも女性の責任だけとはいえず、男性の責任も大きい。しかし、その行為について、女性たちは無常でも冷酷でもなかったと、自ら証明せざるをえなかった。

さらに、1970年代後半から、女性週刊誌を中心とするメディアが水子を注目しはじめる。胎児と乳児の違いはない、とメディアは喧伝しはじめた。母と子は別の、むしろ独立した人権をもつものとして描かれ始めた。すると人びとに自責の念がふたたび襲いかかるのは必然だった。

なお堕胎については、さきほど記した通り女性だけではなく、男性も同じかそれ以上の責任をもつべきであるにもかかわらず、メディアの記事を読むと女性だけに責任を負わせるような内容が多いのも参考までに記しておきたい。


5.発展


5-1.水子ブームの到来

1970年代後半から80年代にかけて、水子の供養・法要目的で寺院を訪れる女性が急増した。メディアは社会は水子ブームに湧いているとすら報じた。

本格的なブームは80年代からで、水子供養のみを実施する寺院も登場しはじめた。実際に、70年代後半から水子供養を行う寺院が増加していると、各種調査から明らかになっている。

供養目的で多額の金銭を払うのではなく、地蔵へ祈りを捧げる形式もあった。その場合にも、地蔵の周辺に水受けがあった。柄杓(ひしゃく)を汲み、地蔵に水をかける。「水の子」を意味する水子を意識したものだった。

なお金銭を要求し供養するものでも、さほど高額ではなかったようだ。供養は数千円から数万円の範囲だった。現在ではすぐに異常な金額の霊感商法を想像するが、商品であっても地蔵が数千円から石像が10万円強だった。

また注目するべきが、水子供養は寺院のみならず宗派に属さない宗教法人や神社でも行われていた点だ。なぜならば、水子供養のきっかけとなった中絶の事実をよく知る僧侶に述べたくない理由があったようだ。水子供養では馴染みの寺には向かいたくない。匿名性の保てるところで供養してもらった。

これが新興宗教のブームとも軌を一にした。水子供養について、多くの宗教団体は、宗派に関わらず供養ができ、身元を明らかにする必要はないと謳っている。

なおこれは批判的な意味ではないと断った上で記せば、いくつかのアンケートを見てみると、水子供養の目的は「自分や家族の健康」「祟を消す」「幸せな結婚生活をすごすため」と、水子そのものよりも、自らに焦点を当てた理由となっていた。

6.仏教的解釈


6-1.伝統的な仏教はどう考えたか

なお、冒頭の話に戻る。水子の祟り(たたり)について述べていたテレビ番組を観ているときに、私の祖父が「こういうのは全部インチキだ」と教えてくれた件だ。

伝統的な仏教は、この水子ブームをどう見ていたのだろうか。80年代の宗教家への各種アンケートを見ていると否定的な意見が多い。大半が、水子供養を正当な宗教行為と見ていなかった。さらには、多くの回答者は水子の祟りなどないと断じている。

ここには説明が必要だろう。

仏教の宗派によってはわかりやすく霊魂という言葉を使用する場合もある。しかし、霊魂は仏陀によって特に強調して拒否された。仏教では霊魂という言葉を使って、肉体と霊魂をわけない。

では輪廻はどう説明できるのだろう。輪廻転生では一つの生き物が流々として何かに生まれ変わるさまを説いているように見える。仏教ではそれを業識(ごうしき)と呼ぶ。しかし、輪廻して転生する間に、自らの過去の世界で祟りをもたらすことはない。だから、そもそも霊の祟りを恐れることはない。

釈尊は霊魂についても語っていない。霊魂を崇拝する話もない。自らの怨みや憎しみが他に向けて影響を及ぼす考え方がない。むしろ回向(えこう)という教えはある。これは<自分自身の積み重ねた善根・功徳を相手にふりむけて与えること>とされる(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E5%90%91)。あくまでも自らの功徳を他に振り向けるという考えだ。怨みや祟りではない。


6-2.浄土真宗の考え

浄土真宗は、明確に僧侶が水子供養を行うことを禁じていた。というのも、行動の基となる経典に根拠がないためだ。そしてこれまで書いてきた通り、水子供養は女性を対象としており、女性に対して搾取的でもあるからだ。そこで親鸞の教えに従って水子供養は禁止している。

もっといえば、浄土真宗は追善供養にも反対していた。これは故人がきちんと成仏できるようにお参りすることだ。反対の理由は、浄土真宗においては人間の救済はすでに保証されている。よって儀式を行う必要はない。それだけだ。したがって、それを超える儀式は僧侶に行えない。

もしかすると、死産や流産、中絶で胎児がこの世から消えるかもしれない。さらに、胎児や幼子はもちろん人間かもしれない。ただし、浄土真宗の上記の考えからすれば、特別な死として設定する必要もないことになる。

仏陀の教えの通り、祟りが生者を襲うこともない。浄土真宗では、生きる信者に、ことさらな恐れを与えてはいけない結論になる。

仏教の僧侶たちは祟りを恐れろ、とはいわない。亡き人をしのぶことはある。ただし仏教は基本的には生きるものの生を問題としている。生きている人間は矛盾に満ちた存在で、動物や米麦にいたる命を殺生しながら生きてゆくしか無い。傷や罪業を背負ってもなお生きていけるのか、という問いにほかならない。

7.宗教ビジネスと割り切れない悲しみ

しかし仏教が興味深いのは、同業者で水子供養を行っているのを黙認している点だ。

ここに面白い一冊がある。現在では絶版になっている「水子供養」(仏教文化研究会)だ。これらは1981年に各種の水子供養を行う寺院を巡って書かれた。同書では京都の洛西・嵯峨にある「直指庵」のエピソードを引くことからはじまっている。

ここは由緒を語る立派な建造物もなかったが、そのシンプルさが人びとを魅了していった。そのうち拝観者たちが大学ノートに悩みを記すようになっていった。この直指庵は「直指人心、見性成仏」という考えに基づいている。「直指人心、見性成仏」は難しい教えとは無縁に、そのままの心を語るものだ。

そこで、ある拝観者は堕胎の罪を語り、それを見た老尼が衝撃を受ける。

老尼は悩みつつも、その告白を公開すると、同様の悩みをもつ女性たちが殺到するようになった。これが1960年代の後半のことだ。女性が解放されたと喧伝される時代にあって、実際には女性たちは解放されていないのではないか。老尼は悲しみとともに宗教者としての役目を果たそうとする。

水子供養は仏教や神道を超えて、ごく普通の女性たちが僧侶たちに乞うてはじまった側面がある。水子とは水の子であるが前近代の日本では限られた意味しかもっていなかった。繰り返すと、仏教経典にも神道や修験道の聖典にも言葉はない。啓示の中にも存在しない。中絶や流産、死産など、水子の定義はない。

それでもなお女性たちは、宗教者に苦しみの中から、自らの救済の言葉をただただ紡ぎ始めたのだ。

「水子供養」(仏教文化研究会)からの引用を続ける。あまりにも素直に、同書では<仏教の「教学」ではなく、普通一般の「人情」>としたうえで<何もしないで放っておくのは、もっと罪深いことです>と書いている。つまり仏教では水子の祟りが否定的であると知りながら、それでもなお「仏教の難しい教えは差し置いて、悩んでいる人がいるのですから助けましょう」と述べている。

人間は本来、冷徹に賢明に、理性の緊張だけでは生きてゆけません。温かい血が流れている限り、時には愚昧にもならねばならず、むしろそういう緊張を解いたところに、人としての「優しさ」を感じるのです。
水子供養は、この「優しさ」の表れです。不幸にして先立たれた子にさえ年を数えるのですから、まして親の都合で、むざんに闇に葬った子に対しては、今となっては優しく優しく尽くしてあげるほかないのです

(「水子供養」(仏教文化研究会))

日本の仏教界は世俗の事象にほとんど口を出さない。僧侶たちは妊娠中絶の増加に伴って罪悪感を和らげ苦痛を緩和する宗教儀式が切望されていた。付加的な儀式は世間に広まることによって、他の中絶経験者も「何かをしなければ」と思うようになった。実際に何十年前の堕胎について供養を行おうとする女性信者が多かった。

水子供養を行う、日本の寺の特徴は、水子のための遊び場を有していた。今も私たちと同じような世界に暮らしていると想像するためだ。これは仏教の経典を読んでも導ける結論ではない。仏教徒は胎児を人間の生命として否定していない。さらに同時に、中絶は絶対に許せないという立場をとっていない。女性の生活に苦悩がともなうと考えられるとき、女性を許している。
(おそらくこれは米国における中絶禁止の宗教観と比べる研究価値があるだろう。しかし、本稿の範囲を大きく超える)


8.複雑な結語

この原稿を書き始めたとき、私は単純な二元論で結論を述べることを期待していた。しかし、仏教の教えとおなじく、単純な二元論に落とし込むことは不可能だった。

水子供養ビジネスは、1970年代後半から80年代前半、本格的に誕生した。医療技術進化と、新興宗教の勃興と軌を一にしていた。

しかし、その背後には堕胎について女性へ責任を負わそうとする社会的プレッシャーが存在し、彼女らが自ら供養を希求する側面もあった。そして仏教界の、良くも悪くも、どっちつかずの姿勢があった。

タイトルの「いつ始まったのか」については結論を出せた。しかし、その結論の背後には複雑で悲しき歴史が横たわる。

<参考文献>
「水子供養」仏教文化研究会
「水子供養 商品としての儀式」ヘレン・ハーデカー
「水子―“中絶”をめぐる日本文化の底流」ウィリアム・R.ラフルーア
「日本の中絶」塚原久美
「水子のお葬式」森下永敏
「地蔵菩薩勤行式」浄土宗法儀司 宍戸栄雄


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