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本則

ある日、校閲さんとクライアントさんがプチバトル。
なかなか見応えのある応酬が繰り広げられました。

Aさん「だっておかしくないですか?」
Bさん「えぇ、でも内閣府の告示ではそうなっています」
Aさん「だけど、絶対にコレ誤読を誘いますよね」
Bさん「文科省指定の教科書も。行政の公文書もそうなっています」
Aさん「そのナントカ府の告示って、必ず守らなきゃダメなんですか?」

Aさんはクライアントさんの制作管理責任者。わたしに負けず劣らず口が悪……いや熱意がおありで、ご自身の仕事に強い自負がある方。Bさんは校正会社から派遣されてきた校閲さんです。

まぁ、綴じものづくりの現場ではよくあることなんですが、一方はひたすら顧客目線で読みやすさ、理解のしやすさを求め、もう一方は頑なに共同通信社の『記者ハンドブック』を妄信する者の戦い。いろんな界隈で擦られまくっている、いわゆる「送り仮名をどうするか問題」ですね。

「行った」と「行った」(いった と おこなった)
「表す」と「表す」(あらわす と ひょうす)
「断った」と「断った」(ことわった と たった)

校閲さんのほうを、アイロニカルに「妄信する者」と書いたのは、あまりにも空気を読まず、ことの本質に目を瞑って、本則を拠り所にされていらしたからです。仮に「アメリカへ行った」なら「行(い)った」と読めます。が、「すぐに行った」だと「行(おこな)った」にも読めます。まぁ、視界を前後の文脈まで広げれば、なんとなくどっちなのかはわかることなんですけれど、Aさんは必要に応じて「な」の挿入を主張していました。

そこでわたしは提案します。
「どっちも間違いではないんで、ここはAさんの思いとして、送りに「な」を挿入しませんか? このメディアの表記ルールは今後そうしましょう」って。

別に、ギャラをいただいているからって、長いものに巻かれてるわけじゃないですよ。クライアントに阿って、校閲さんを粗雑に扱っているわけでもありません。ふだんからAさんは、真面目なのと口さがないのがレッツ・コンバイン!して、時に鬱陶し……いや常に本質を寄る辺にして核心を突いてくる人なんです。


この問題は、過去に別の場面でも校閲さんとの間で議論になったことがあったんですが、その時はむしろ校閲さん側が柔軟に対応してくださいました。

「自分の立場では本則を尊重したいところではありますが、あくまで迷った時の目安です。“な”も許容されていますから、この場合はそうしましょう」

まぁ、そういうことですよね。文化庁の国語審議会の答申にだって、本則、許容、例外とあって、本則、許容のいずれに従ってもよいと記載されています。それに、たいていの校閲さんはこんな感じでやさしいんです。

わたしは、ナニナニでこう決まっているからとか、ドコソコでもこうしてるからとか、みんながしてんだからいいんじゃね?的発想が、もの凄くイヤなタチで。Aさんのように、ある種の信念を持って仕事に臨む人の方が大好きです。
その時の校閲さんのあからさまに困ったような、それでいて侮蔑したような、メンドくさそうな表情。何より上から押し付けるような物言いが気に入らなくてね。言葉を選びながらやんわりと突っぱねました。

最近ちょっと思うのは、こういったルールに対して、「なぜ、そんなルールができたのか」、「どういった経緯でルール化が求められるようになったのか」に思いをいたさず、「ルールだから」で思考停止したまま物事を決定しちゃう人が案外多いということ。日本語は多様な表現があって、母国語だからという思い入れを差っ引いても、世界に誇れる言語だと思っています。でも完璧ではないんでね。とりわけ現代の使い方は、所詮、明治に体系化されたばかり。時にはフレキシブルに対応したほうがベターな場合もあると思うのです。

とかいって、Aさんも、他のクリエイティブチームから提案された企画に対して「その手の仕掛けは過去にもやろうとしたことがあって、その時はうんたらかんたらで実施が難しくて」とかなんとか、ご自分が敷設したルールには頑ななところもあるんですけどね。まぁ、日本語の構造が完璧じゃないように、世の中に完璧な人なんて誰ひとりとしていませんから。
いつもAさんとは、喧々諤々、丁々発止、ぶつかりあいながらも楽しくお仕事させていただいてます。ヌルヌルっと手応えなく進んで、結局化学反応のかけらもなく終わっちゃうお仕事ほどつまらないものはないんで。たまにどっと疲れますが、これはこれでいいと思ってます。

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