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常套句の使いどころ

こないだ「縛りをかける」という拙文を投稿しました。

南の島の話を書く時に「南国の楽園」は使わない。美味しい料理を紹介する時に「おいしい」以外のコトバで表現してみる。そうやって自らに「縛り」をかけることで、どっかで読んだような文章にならなくて済むんじゃないか、引き締まった文章が書けるんじゃないかといった内容を、拙いながらも綴らせていただきました。

でも、これを投稿した翌日にnoteを開いたら、「常套句を使うから文章が陳腐になる」的な記事が、おすすめ欄にズラーっと並んでいて……。
いくつか拝読していたら、逆に「そうかなぁ?」って反論したくなってきちゃったんです。こういう「どっかで読んだことがあるような常套句」って、実はそんなに忌み嫌うべきものではないんじゃないかって。

わたしは時折、市民が享受できる行政サービスをわかりやすくガイドする記事を書くことがあるんですが、その仕組みや、できあがった背景、時代とともにブラッシュアップされてきた経緯などを詳らかにしていく際、わりと意識的に「常套句」を使っています。
また、ちょっと特殊な事例を記事の中で取り上げる際、あえて「常套句」を差し込んで、読者の心が離れてしまわないように工夫したりもします。

なんでって?

ただでさえ小難しい制度の建てつけや、それによって受けられるベネフィットを紐解く時、あるいは専門用語がバンバン並ぶような話題を専門家ではない一般の読者に理解していただきたい時、文学的な表現や捻った言い回しは必要じゃないからです。

さすがに「小学生にもわかる」ように目線を下げろとは申しませんが、中学生でも理解できるくらいの平易な文章で書いたほうがいい場合があります。そういう時に、あちこちで擦られまくってて、どなたでも頭の中でイメージしやすい常套句、いわゆる「決まり文句」とか「クリシェ」とかいわれているありふれたレトリックの方が、むしろ武器になります。

これらは、独創性がないとか新鮮味に欠けるなどというイメージがつきまとい、適材適所で用いないと説得力を持たせるどころか興を削いでしまうことにもなりかねないので、昔はよく先輩編集者から「使うな」といわれていたんですけどね。

でも、逆にいえば、長い時間をかけて多くの書き手に磨かれた「誰もがすんなりと自然に受け止められる表現」ともいえます。喩えるなら、なんの雑味もなく喉を潤してくれる「おいしい水」のようなもの。当たり前過ぎて、安易に使うと有り難みが失せて無味無臭になりがちではありますが、使いどころをきちんと吟味さえすれば、的確な比喩表現たり得ますし、難しい話題の隙間を埋める好適な緩衝材にもなると思うんです。

上述した「おいしい水」で渇きを癒やすのとはちょっと違いますが。例えば、ハワイの島々を表現する際、ダイレクトな比喩表現として「抜けるように青い空」を使ったら、確かに陳腐で面白みに欠ける文章ができあがるかもしれません。でも、こんな文章だったら、皆さんはどう感じますか?

ボートに乗って海岸線沿いを進んでいくと、程なくして視線の向こうにイアオ渓谷が見えてきます。ふだんは、抜けるような青い空が広がっているこの島ですが、亜熱帯の樹木が生い茂る一帯へ足を踏み入れようとした途端、周囲の湿度は急激に上昇しはじめ、天高くそびえる山々の稜線が、いつしか深い霧に覆われていることに気づかされるでしょう。

能天気なほどに明るくキラキラとしたオアフ島・ワイキキの青空。同じ青空でも、じっとりと何かスピリチュアルな〝気〟や〝圧〟を孕んでいて、神々しいエネルギーを感じさせるハワイ島の青空。ローカルな空気感が漂い、時折、青空の中にポカリと浮かんだ積乱雲から雨バシラが降り注いでいる神秘的なマウイ島の空なんかもそうですね。そういったことどもを表現する際、ステレオタイプな例として「抜けるような青い空」を置くことは、読者に、書き手が見た観察対象を印象的に伝えるのに役立ちます。「あ〜、なるほどね」と一旦グッと引き寄せ、そのあとで自分のコトバで描けば、よりわかりやすいんじゃないでしょうか。

とはいえ、「ありきたりな表現を禁じ手にせよ」という諸先輩方の言い分もわかります。どっかで読んだような文章にしないためには、手垢のついていない筆致に努め、少々の難文を散らすのもアリ。場をピリッと引き締める効果を期待できます。

まぁ、ご自分の文章に縛りを設け、自分が考え抜いた表現をセレクトしてゆく作業は、確実に文章力や語彙力をアップさせる訓練になろうかと思います。でも、常套句をことさらに毛嫌いするのも戦術の幅を狭めているようでもったいないかなと。要はケースバイケースってことですかね。

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