コミュニティとムラと宗教

こんにちは。福島県南相馬市というローカルにてコミュマネ活動をしている福太郎と申します。

本noteは、コミュニティのカレッジ アドベントカレンダー企画「私とコミュニティと」のエントリーブログになります

アドベントカレンダー企画の言い出しっぺということで、2本目を。
自分の中の暗黙知や感覚値を体系化するには良い訓練になりますね。
(まだまだみんなのあれこれ知りたいね!)

さて、2本目はコミュニティ・ムラ・宗教というものを切り口に語ってみたいと思います。

言葉としての「コミュニティ」とは実にファジーなものだ。
マーケティングに使われたり、サードプレイス的な意味合いで使われたり、地域などの文脈に用いられたり。

特に横文字や新語って定義に余白があるので、便利な反面わかりにくさが生まれる。
なので日本語で言うところの「共同体」として、宗教とコミュニティとムラ、3つの観点にて紐解いていくことで本質と相違を洗い出して解像度を高めていこう。

ムラという互助空間と儀式

互助は自分の生存確率を高める

かつて国家が形成される前、文明の起こりはむらだったと教科書に書いてありる。(と記憶してる)

動物が生存のために集団で生きることは、防衛と食料調達が主な目的だろう。
特に人間は社会性が武器で、「互助」が繁栄につながったのではないか。

まだ食料の安定供給もままならぬ狩猟採集のライフスタイル時代から血縁を中心とした小集団を形成し、だんだんと領土を持ち始め、集団が拡大していく。
集団の持続と繁栄のために全体最適のための統治者が生まれたり、職業的な分業性が生まれていく。
この分担が意味することは、利他が求められることであり、利他こそが最終的に自己の生存につながるということ。

究極に単純化すれば、男がタンパク質である肉を狩で手に入れ、女が木の実を取りビタミンを手に入れていた、というように。

ここら辺の実例は漫画「火の鳥」にありありと記載されているので、ぜひ実感値を保つためにも読んでみてほしい。

むらの民とそれ以外を区別するもの

漫画 ワンピースより

では、村の民(内側、味方)とそれ以外(外側、外敵)を分けるものはなんだろう。
何かしらの儀式(イニシエーション)があり、共同体験ができるかどうか、じゃないか。

同じものを味わう、何か痛みや傷などを経験するなど。
一つ事例としては、エチオピアにあるハマル族の成人男子儀礼、牛渡りなど。(昔オードリー春日がやってたのは記憶してる)

卑近で身近な例としては、昔僕が参加した大学サークルの合宿で「禊」と称して新入生が1本のドリンクボトルを開けることをした。
この苦行を通じて真のサークル一員として認めらることを案にしめしていた儀礼だったのだろう。

まとめ
群れには生存のための互助性が生まれる。
特に人間は群れの一員として区別する文化的行事があったりする。

宗教、教義と連帯について

宗教。
昔は超自然的な現象を説明してくれる万能な存在だったり、時に政治的に用いられたり禁止されたり。

今は超自然的と思われていた大半は科学で説明されてしまっているが、それでも宗教は色褪せない。なぜだろう。

色々と広すぎているが、今回のテーマについて抜き出すとすれば、信じる「教義」があることと、連帯をもたらしてくれることについて触れたい。

教義の実践

〇〇をするべし、〇〇をするなかれなどの教義を守ることを通じて、その信じる価値観を実践していく。

研鑽に励んだり、教義の実践を通じて魂を磨く。

それを実践することで何か目標を達成したりだとか、別に大きな見返りが必ずしもあるわけではないこともある。
ただ、実践を通じた大きなものと繋がっている安心感だとか、「人の道」を歩いている感じが持てるだろう。

連帯するということ

今、宗教の力が再びリバイバルしているのを感じる。
新興宗教、企業も力を持ち始め求心力を持ち、かたやインフルエンサーという教祖の台頭など信じたいものを信じれ、選びたいものを選べる時代。

天変地異が起こりまくる時世、一口に言って不安だ。
連日の報道を見ると、直接的に自分に関わるトピックでなくとも未来に仄暗い絶望を感じてしまうし、世界が、地球が崩壊に向かっていることを肌感覚で意識せずにはいられない。
明日隣国が攻め込んできたりミサイルぶち込んでくるかもしれない。
そんな状況下において失礼を承知だが、神に忠誠を誓い仏に祈ったところで、腹は満たせない。

それでもなお信じることは、連帯・所属が根底にあるのではないか。
大きなものはどうしようもなくたって、こいつらといれば、少なくとも今を楽しく生きれる。何か有意義なもの、信じれるものに向かって進める。

何を為すか、がアンコントローラブルなのであれば、誰といるか、何に接続されているかで自己を規定し、精神の不安定からバランスを保つ。

まとめ
つまりJKの「ウチら最強」的なあれに近しい。

じゃ、現代の「コミュニティ」はなんぞ

現代の文脈のコミュニティにある程度寄せたものとして語ると、ムラと宗教の性質のいいとこどりなんじゃんないかな。

ムラからの互助性、宗教の連帯性を取り入れ、ムラの面倒な文脈性と宗教の一義性を取り除く=いい塩梅なコミュニティ

村から取り入れたものは互助性。
今の時代の資本主義を自分の理解の範疇で極度に単純化するなら、、利己追求と等価交換を原動力とした仕組みだ。労働力をA投下し、資本A’を得る。資本A'を投下し、商品Bと交換する。みたいな。
交換が起こるには、AとA'が同等か、もしくはそれ以上の効用や価値を生み出してくれるこを期待して、初めて何かの行動が起こる。
上記のような過程が人間の数だけ行われている。AとA'、BとB'、CとC’…こうして起こる交換の過程には、歪みがありつつも見過ごされがちで、だんだんとそれは大きくなっていく。 この歪みが顕現したものが、しばしば言われている「格差」と言われるものではないか。

一方でコミュニティの場合、厳密には交換ではなく贈与が行われている。
Aを投下したからと言って、別にA’に相当するだけのリターンが来ることは約束されていない。あ、これ面白そう、あの人に役立ちそうだなと思ったから情報をシェアしたり、出張した時に義務感や政治的立ち回りを動機にせず、お土産を買って行く行動は贈与だ。

Give&Takeの交換の構図ではなく、GiveとGiveとなる。贈与には歪みというものを吸収してくれる何かがある。まだ言語化できてないがそれは「愛」というものだったり、「ソーシャルキャピタル」だったり。この話はまたの時に。

ムラから取り除いたものは何か。面倒な文脈性ではないか。
古来のムラのように強烈な身体性や儀式、痛みを共にしなければ、一員となれないというほどの強制力は現代のコミュニティには見られなくなった。

これはさきほど「面倒」と記載したが「コスト」と置き換えるともう少ししっくり来るかもしれない。
うんびゃく年続くムラのしきたりを守れ、だとかどこか身体に傷や改造を加えることだとか犠牲とする時間や差し出すものが大きかれば大きいほど、強固な結びつきを生み出せる。

社会が広がり個人がいくつもの面を持つ分人となり、一つのコミュニティに依存しなくて良くなったこと、そして資本主義に伴い社会が発展したことで互助をしないと生存可能性にダイレクトに響くシチュエーションが減ったからだろう。

一つ反証としては、現在も行われているサッカーワールドカップだ。
皆がその国のイメージカラーを纏い、複数あるチャントを覚えて唱え、国の維新をかけて戦い勝った負けたを喜び悲しむ。
別に法律の強制力があって、誰かに支持されてやったわけでもないのに、時にサッカーという競技のさらなる繁栄のためのマナーある行動としてスタジアムに落ちたゴミは拾うし、勝ったら渋谷のスクランブル交差点に集って狂喜乱舞する。
あのえも言われぬ一体感、独特の礼儀作法はもしかしたら期間限定で現れる「日本サッカー」というムラであり、コミュニティなのかもしれない。

宗教のような一義性より多義性

宗教との違いはなんだろうかと考えた時、一義性が排されているところではないかと思う。

宗教というものは多くの人を内包することになる。
キリスト教に至っては約24億人ぐらいいるらしい。
当然国も職業も文化もバラバラの違いがある人たちを束ねるのは大変。
強大なエネルギーが必要になる。

ならば、預言者、神、教祖といった大きな存在が必要になるし、彼らとの接続のために、一義性の強い教義の実践が必要になる。
それぞれが考えて、好きにすればいいよ、じゃまとまらない。

AというものはBということである。Cをやりなさい。Dはやってはいけません。
さすればヒエラルーを明確化させて、ピラミッド構造に統治がなされた方が何かと都合は良くなる。
比較的構造がしっかりした会社でも創業者やオーナーの言うことは絶対になるし、マネージャーは預言者。
パワーバランスはトップからどんどんと下に流れていく一方通行になる。
それ流れに対して逆らう「異教徒」であろうとすれば、連帯と秩序を守るために排斥されてしまう。

ピラミッド型よりもサークルのような相互作用性

コミュニティはどうだろう。
別に教祖はいない(創始者はいるかもしれないが)し、その人が偉いわけじゃないし、強烈な教義に人が集うのでない。
何かのテーマがあればいい。その中の指針は集う人により流動的なものになっていく。
生き物のようにウネウネと変動していき、そこに属する個々人の相互作用が起こる。
もしかしたら目的なども変化していくかもしれない。
その相互作用性と変容を前提として動いていくので、サークル・アメーバに近しい存在なのだろう。

宗教でいう理想の世界、会社でいう業績目標など何かに突き進むのであれば、ピラミッド型が適してはいるけど、探究やサードプレイスなどに置いては、無目的性の、方向性の拡散の許容が必要で、適しているのはサークル型なのだろう。

まとめ:結びついたりちぎれたり。でも引で見れば緩やかな繋がりになっているって、なんかよくないすか?

最後に

バラバラのタイミングで少しずつ書いたのでちょっと拡散しちゃいました。
コミュニティというものを人類のおこり、人類でずっと普遍的にあった宗教、そして変わりゆく現代という3つの観点を横断しながら、言語化を試みてみました。

こんな観念をどんどん形にしながら、何か自分が変化した時、コミュニティというものに向き合う誰かがヒントにしてくれたら幸いです。

Twitterやってます&このアドベントカレンダー企画で書いたもう一個の方もぜひ読んでくれよな!



頂いたサポートはありがたく有意義と無駄の中間らへんの事に使います🐣