死へ抗う動物、ヒト

死生学のゼミなるものに参加してみる。
ライフワーク的探求にそろそろ向き合おうと思い。

死をひとつとっても、本当に多様なテーマがあるもんで、30人ほどの参加者がシェアしていた興味関心や取り組む領域もバラバラで面白い。

(特定の思想への偏見を抜きにして)
死ぬの私あんまり怖くないという方、私怖くて仕方がないという方とお話しして象徴的だったのは、「怖くない人」がわりかしスピリチュアルな領域の価値観をお持ちだったこと。

その方の世界のそのような理論で回っているという意味で、自らの生き方に自信を持たれていた。

そこから腑に落ちたのは、死への絶対的概念、恐怖への対処としての脚色は人間のみがなせるものだということ。

わからない死に対して私は(私たち)はこのような論理で対処する。
宗教、葬儀、弔い、など諸々の死生にまつわる共同幻想を共にし、一旦は死ぬことへの暫定的解として納得して、恐怖を紛らわす。

で、生まれた問い。

ゼミに参加した我々はどこまで行っても死に直面した当事者ではない。

立派な講釈を垂れている生物学者も、坊主も、前世診断士も、それを信じたあの人も、冷徹な分析をするぼくも、死に直面する当事者となるとき、どうなるのか?

人間としての理性的なガワをかぶる自分と、動物としての死に直面し、生存本能丸出しにするであろう自分。
社会的存在ニンゲンの死と、動物的存在ヒトの死と。

世界を解った気になったとしてその前提を根こそぎ刈り取ってくる死に対して果たして何を思うのか。

自分自身が3ヶ月後にどんな暫定的解を見出すのかが楽しみである。

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