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〈読書〉をみんなの手の届くものに

公共図書館の存在意義について考えたことはありますか。公共図書館は、たまたま通える立場にある人や、一部の本好きの人たちだけが、楽しむために存在しているわけではないのです。


フランスには、公読書という言葉があります。公読書は、公共図書館が担うべき最も重要な役割の1つとされています。なお、ここでいう「読書」には、そのための能力や機会、あるいは環境といった意味も含まれます。いわゆる書を読むことだけに留まらない、もっと広い意味をもつ言葉として使用されています。文字だけではなく、例えば音や映像など、なんらかの媒体に記録可能なあらゆる知識や情報、あるいはそれらを通じて得られる文化などに関することも含めた表現として使用されているということです。フランスにおいて、公共図書館は、その「読書」を「公」が支えたり発展させたりするための機関として位置づけられているのです。
 
この考え方は、本質的な次元において、どの国でも通底するものではないでしょうか。日本の公共図書館も、そうあるべきではないのでしょうか。つまり、公共図書館の最も重要な役割は、「読書」をみんなに届けることではないのでしょうか。もちろん、ここでいう「読書」にも、いわゆる書を読むことだけにとどまらず、さまざまな媒体に記録された情報や知識を得たり理解したり楽しんだりするといった意味を込めています。とはいえ、「読書」は、あくまでも各人の自由な意思で行うもので、決して強制されるものではありません。だから、公共図書館の最も重要な役割は、より正確には、「読書」をみんなの手の届くものにすることなのだと思うのです。
 
「読書」をしたいと思った時、誰でもが手を伸ばしさえすれば、それに手が届く。一人でも多くの人が手を伸ばしたいと思うような状況をつくり上げてゆく。収入や立場や置かれた環境などに関わらず、みんなが「読書」を楽しめる。例えば、こうした仕組みを確実に築いていくために、公共図書館が存在しているのではないのでしょうか。

そうであるなら、公共図書館は、何よりもまず、経済の論理に巻き込まれないようにすることが重要ではないのでしょうか。そのために、公共図書館の運営は、民間ではなく公に託されてきたのではないのでしょうか。私企業の論理、換言すれば、民間の論理を導入したり、民間に委ねようとすることは、公の責任を放棄していることと同じです。知識や情報は、それぞれが身の丈に応じて自己負担かつ自己責任で入手せよと言っているのと同じことなのだと思うのです。

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ところが日本の場合、公共図書館はすでに多くが民間に委ねられています。それどころか、この傾向はますます強まりつつあります。次回より、その経緯を辿ってみることにします。

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