わかりやすさの功罪

 私は文学や言語学が専門だったわけではないのだが、そこそこの期間にわたって言葉を教える仕事をしていて、だから読むということはどういうことかをよく考える。文学理論に関しては、教える仕事するよりずっと前から関心を持っていて、それこそヤウスとかジュネットとかジョナサン・カラーとかを手にとったりもした。そのようなテクスト論とかポトスモダン系批評理論とかに触れてきたせいか、文章の意味を作り出すのは読者側であるというざっくりとした理解が、どこかで暗黙の前提になっている。
 もちろん、仕事として言葉を教える場合は、解答が一つに絞られるケースがほとんど。だから、文の意味はある程度まで一義的に決定できること、そして試験においては少なくとも「正解と不正解の境界」は明確に定められることを、強調して話すことが多い。
 とはいえ、数年来、力点の置く場所がやや変わってくるようになった。


 昨今は、文章の意味は一義的に決定できることが望ましいという考えかたが強くなりつつあると感じている。その上で、一義的な読解をする力を高め、逆に発信の際も一義的に理解できるような文章作成をよしとみなす傾向が強いと感じている。多分PISA型テストの結果に由来すると思われるこの傾向は、共通テストの内容や、学習指導要領における「論理国語」「文学国語」という科目名などに、そのような考え方が投影されていると思う。これらをひっくるめると、言語の理解は「情報処理」と同種のものだと考えられるようになっている、と言えようか。
 確かに、言語活動には「情報処理」の側面があるとは思う。だからそういう側面を鍛える必要性そのものは同意してもよい。ただ、言語の読解や言語コミュニケーションを「情報処理」という形式に落とし込んでしまうことは、実際の言語活動の実態にむしろそぐわないというべきではないだろうか。
 それは、文学的な言語活動や言葉遊びの類を排除するというだけではない。一見情報処理的に思われる言語コミュニケーションにおいても、例えばコンテクストが言語の理解に与える影響、文法的に破格であったり誤りを含んでいたりする表現を適切に理解する能力などといったものは、情報処理という比喩で説明することが難しいのではないだろうか。

 村上春樹は『ノルウェイの森』の中で、「言葉という不完全な容器にのせることができるのは、不完全な記憶だけだ」というような内容を述べていた。ここでの文脈に置き換えると、誤解のない表現とは、言語の網目で捉えようとする広大な現実のうち、ある部分だけを取り上げることによってしか成立しないということだ。だからこそ、必要な部分を取り上げる技術が必要になってくるとも言え、その必要性は確かに理解できる。だが、その場合でも見逃してはいけない大切なことは、「言語化されずに取り残されたもの」が必ずあるという認識であり、それを汲み取るための新しい言語のあり方を絶えず模索し続けることであるはずだ。
 どこに書いてあったか失念してしまったが、社会学者ピエール・ブルデューは「複雑な社会を叙述する文章が、その社会より簡易になってしまうというのは、社会を叙述する上では害悪である」というようなことを述べていた記憶がある。それはブルデュー自身の悪筆に対する言い訳だったのかもしれないが、言いたいことは上で述べたことに通底する部分もあるだろう。

 だから、言語においてわかりやすいことは、常に望ましいとは限らない。そして、いかなる言語活動も、潜在的には多義性を有するというべきだ。
 それで、教えるときも、文章構造の把握による一義的な読みだけでなく、その背景となる知識、現実の状況などの具体的事例との関連性といったコンテクストに対する言及が増えるようになってきている。さらに、「読むこととは、受動的に情報を受け取るのではなく、自ら言語に関わって意味を汲み取る能動的な行為だ」ということを積極的に述べるようになってきている。

 もっとも、多くの研究者や指導者にとっては、そんなことはもう何十年も前から自明のことで、私が遅れて気づいただけなのかもしれないけれど。

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