ジャッジすることについて

 僕はなぜか、仕事でもプライベートでも、心を病んでしまった人や学校を中退している人のような「本筋からちょっとずれた場所」にいる人から好かれる傾向にある。
 もちろん、このような特性を持った人が「本筋からずれている」ということを言いたいわけではない。いわゆる「多数派」とはちょっと違った人生を送っている人、といえばいいのだろうか。ともあれ、そういう人から懐かれたり信頼されたり、あるいは親密になったりする傾向にある。

 この理由を、僕が「他人をむやみにジャッジせずフラットに見るから」と説明した人がいた。
 確かに、僕は世間的な基準を持ち合わせていないので、そういう意味ではフラットなものの見方をしているのかもしれない。だから、世間の基準に対していささか「逸脱している」「ずれている」ように見える人でも、気にならない場合が多い。
 僕は異性から「聞き役」として選ばれることが多い(恋愛対象としてではない)のだが、その理由も同じだろう。世間的な善し悪しの基準をあまり持っていないので、話す内容がなんであれいちいち批判したりしないからだ。
 確かに、少なくとも人格的なところでは、世間的な基準とずれていたところで、人を非難したりすることはない。自分の基準と違っていても非難するに当たらない(無関心だからだと言われたこともあるけれど)。非難することがあるとしたら、それは実際に他人を傷つける場合だろう。


 けれど、いつだったか。自分の認めていない人だと態度が上からになる傾向にあると指摘されたことがある。まあ、そのときは「そうかもしれないなあ」と思った。実際、学術の基本を弁えない発言をSNS上で見る度にイライラすることが多く、その限りでは件の指摘は正しいのだろうと思う。
 ただ、冒頭のことを思い出したとき、それだけでは済まないことに気づき、一瞬愕然とせざるを得なかった。僕はむしろ、そういう「すでにある基準」で人を測ることをしないことで、数少ない他者からの信頼を得てきたのではなかったか。人と積極的にコミュニケーションを取ることが不得手で、人脈づくりとか不得意分野の最たるものだった自分が、唯一他者と繋がりを持てる手段が、「世間的な基準で人をジャッジしない」ということだったのではなかったか。それは他者との関係性において、自分のほぼ唯一自信を持って言える側面ではなかったか。

 学術も芸術も、そこにはその人の才能と修練の結果があり、そこは尊敬すべき部分だ。だが、それがないことは、その人を非難したり軽蔑したりしていいことを意味しない。
 もしかして、僕は大事なことを忘れていたのではないだろうか。学術や芸術に一応携わっている者(愛好者でしかないけれど)として、そこの善し悪しこそ全てであるかのような錯覚に陥っていなかったか。学問や芸術での批判はもちろん必要だが、それは人格への非難とは切り分けられなければならないことを忘れていなかったか。


 僕は、他人が自分の何を信頼してくれていたのか、忘れてしまっていたのだろうか。ほんとうにほんとうに数少ない、自分を信頼してくれた大切な人たちのことを、忘れてしまっていたのだろうか。

 僕は何をしていたんだろう。
 どこで何が変わってしまったんだろう。


 所詮は何事も成し得なかった自分など、他者をジャッジする資格などない。
 そのことは、もっと深刻に肝に銘じないといけない。


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