ピアノという楽器に対する特別な想い

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 一応、身近なジャズ仲間たちからは「フリューゲルホルン奏者」「トランペッター」として認識されていると思うし、僕自身もそのような自己認識を持っている。もちろん、あくまでアマチュアの奏者であり、それ以上の認識はされていないだろう。
 高校生になってオーケストラでトランペットを始め、大学でオーケストラのトランペットにどっぷりと浸かり、卒業してから若干のブランクを経て、「よしジャズをやろう」と思い立って幾星霜。今ではすっかりジャズのアマチュア奏者となり、クラシックは吹けない体となってしまった。ただ、ジャンルはともかく、担当する楽器としては、10代半ば以降ずっと「トランペッター」として過ごしてきた。それが僕の音楽生活のアイデンティティだった。まあ、厳密には、今は「フリューゲルホルン奏者」が自分のアイデンティティだ。そこは譲れない。
 
 そうなのだけれど、高校に入学する前はずっとエレクトーンを習っており、それまでは管楽器より鍵盤楽器に馴染みが深かった。確か、小学校1年生から高校卒業のタイミングまでやっていたと記憶している。10代のうちは、自分にとって最も操りやすい楽器は鍵盤楽器だったのだ。
 だから、大学でまかり間違ってオーケストラではなくジャズ研究会あたりに入っていたら、おそらくはピアノをメインに演奏していたのではないかと思う。その時点では、ラッパ歴より鍵盤歴の方が長かったからだ。多分、「トランペットも多少は吹けるピアニスト」を目指したのではないかな、と思う。

 そういう背景もあり、僕にとってピアノという楽器は、ずっと憧れの対象だった。何というか、あり得たかもしれない、自分のもう一つの可能性みたいな、そういう対象なのだ。他人の楽器とは思えない、というか。
 尤も、エレクトーンを習っていたからといって、「アコースティックピアノ」が弾けるとは限らない。何せ鍵盤の重さが全然違う。そういう意味では、鍵盤に馴染みがあっても「ピアノが弾ける」わけではなく、結局多大な苦労を強いられた挙句に大してうまくはならなかっただろうけれど。
 だからこそ、ピアニストという人種には、大きな尊敬の気持ちを抱くのであり、同時に他人とは思えない距離の近さがある。……まあ、それも結局人によるのではあるかな。ただそれでも、ピアノという楽器には敬意や憧れや自己投影や、色々な感情を抱くのは確かだ。


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 そのせいなのかどうなのか、僕は共演者としてはギターよりピアノを好む。
 フリューゲルホルン(とトランペット)という楽器は、一度に一つの音しか出せない。一人では和音を出すことができないわけだ。僕としては、ジャズの根幹はリズムだと思ってはいても、音楽する上で和音の響きがどうしても欲しい。だから、和音を出せる楽器とやはり演奏をしたい。その候補は、ピアノとギターになる。もちろん、ギターはギターで魅力的なのだけれど、共演するならばピアノを好む。
 ピアノを好むのには、色々な理由がある。その数ある理由の一つに、先に述べたような自分と鍵盤との関わりが絡んでいるように思う。

 そして、僕は自分と一緒に演奏するピアニストを「伴奏」と呼びたくない。ピアニストだけでなく、ベーシストやドラマーも同じだけれど、特にピアニストに対しては強くそう思う。
 僕がやりたいことは、僕の吹くフレーズに合わせてもらうことではない。……いや、そうして欲しいときももちろんある。けれども、ある楽曲をピアニストと一緒に演奏するということは、どちらが主でどちらが「伴」かではなく、お互いに音で対話をすることだと僕は思っている。その過程として、僕についてきてもらうことが望ましい時もあるだろう。けれども、それがやりたいことの全てではない。あくまで対等な立場で、お互いに音で対話をしたいのだ。
 僕が少ない編成を好むのも、可能な限り対話をしたいと思っているから。一度に音を出すことが多いと、誰について行っていいのかわからなくなってしまう。ドラムが入ったりフロントが複数いたりしたほうが僕は楽ができるのだけれど、楽ができるということは同時に誤魔化しているということでもあるだろう。だから、きちんと相手の音を聞けるよう、編成を小さくしたい。自分自身の力量を考えると、結果として出てくる音楽のレベルは下がってしまうし、だからこそピアニストに負担をかけてしまうのだけれど、それでも。

 誰かの演奏を聴きに行くときも、ベースやドラム、ギターに関しては、「上手いなあ、すごいなあ」と思うけれど、ピアニストに対しては「この人と一緒に音楽したい」と思うことが多い気がする。それだけ、僕にとっては、厳密に言えば「フリューゲルホルン奏者としての僕」にとっては、ピアノは常に僕と共にあって欲しい楽器なのだ。
 些か勇み足となる表現を許してもらえるならば、ピアノは「どこか遠くにいるだろうもう一人の自分」なのかもしれない。いやまあ、相手のピアニストにとっては、そういう思いを向けられても迷惑なだけだろう。だから当人には言わない。けれども、それはベーシストやギタリストに対しては思うことのない、ある種の特別な感情であるのは確かだ。


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 これまで、共演させてもらったピアニストの数は、まあそれなり。
 こちらからお願いする場合は、そのピアニストの選択にはかなり注意を払う。というのも、すでに述べたとおり、僕のやりたいことをやるにはどうしてもピアニストに負担をかけてしまうから。そのため、ある程度まずはきちんとできる人にお願いすることになる。加えて、可能であれば今後も継続的に共演してくれそうな人にお願いしたい。結果として、どうしても選択肢が狭まる。
 改めて思う。これまで共演してくれたピアニストは、素晴らしい奏者だったなあと思わずにいられない。

 素晴らしいピアニストと継続的に演奏することができても、やはり「継続」そのものは色々な理由で難しくなることも多い。こちらはあくまでアマチュアというスタンスなので、その辺りも難しい理由なのかもしれない。
 もちろん、仲違いをした記憶はなく、単にさまざまな事情で共演の機会がなくなってしまっただけだ。かつて継続的に共演したピアニストが、自身のリーダーライブを行うときには、聴きに行ったりする。どこぞで偶然出会ったら、お互い笑顔で挨拶を交わしたりもする。ただ、それぞれが何を重視したいのかは、人によって違ったりもするし、あるいはその時々で違ったりもする。それでいい。僕のやりたいことに相手を縛り付けることはできないし、僕が縛り付けられることも望まない。なんらかのタイミングで、また一緒に音楽をすることもあるかもしれない。そうなったら、それは喜ばしいことだ。
 それだけのことなのだ。


 ここ一年くらい継続して共演しているピアニストも、もしかしたら一緒にライブができなくなる日が来るのかもしれない。本当にピアノが上手で、音楽の好みも合い、しかもいい人なので、細くてもいいので長く続けたいとは思っている。けれども、それすらなかなか難しくなるときが来るのかもしれない。
 そうなってしまったら、それはそれで仕方のないことだと思っている。以前にも、そんなようなことを書いた気がする。

 そう、何らかの偶然のつながりで、今、幸せな演奏活動ができているのだ。偶然で得られた機会なのだから、偶発的に失われることだってあるかもしれない。それはそれで仕方ないことなのだ。
 けれども、偶発的に失われたのであれば、また偶発的に共演できるかもしれない。そうなったら幸せなことだ。
 それでいいのだと思う。

 あるいは、もしかしたら、今後も偶然の繋がりが生まれて、また別の機会が得られるかもしれない。そうなれば、それはそれで幸せなことだ。


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 結局のところ、僕はピアノという楽器がやっぱり好きで、自分ではうまく弾けないけれど、上手い人が弾くのを聴くのはやっぱり好きだ。そして、そういう上手い人と共演できる機会があれば、この上なくうれしいことだ。
 だから、ピアニストとはもっと出会いたい。なかなか出会う機会がなかったりもするのだけれど、ピアニストに出会いたくて仕方がない。

 そして、それはやっぱり、もしかしたらそうであったかもしれない、もう一人の自分を探しているのかもしれない。
 失われた可能性であるが故に、永久に届くことはない想い。それが、僕のピアノに対する想いなのかもしれない。


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