役割と固有名詞

 人は社会に参入するとき、多くの場合に何らかの役割を演ずる。社会学などよく言われることだと記憶している。
 社会学における役割理論の詳細を述べることは、私の力量を超えたことなのでここでは省略するが、例えばあるときは教師として、あるときは通行人として、ある時は男性としての役割を演じながら、日々生活している。それがわれわれの日常的なありようだ。

 でも、人はその役割に完全に埋没しているわけではないだろう。だからこそ、どの役割にも属さない「わたし」そのもののようなものを、同時に意識してしまうのだと思う。
 僕にとっては、音楽をしている間が、その社会的な「役割」から逃れている時間の最もわかりやすい形態なのではないかと思う。だから、音楽している間は、役割に回収しきれない「わたし」に戻ることができ、心地よく感じるのではないか、と。


 そこで厄介なことが発生する。人前で演奏している間は、演奏者という社会的役割を演ずることになるということだ。役割を外れる心地よさを求めて音楽をしていたはずが、「演奏者」という役割を演じなければならないことになる。そのような役割は、社会的関係の内部にあるため、社会における一定の責任を背負う必要が出てくる。
 何者でもない、ひとりの人間になることができるわずかの時間が、あっという間に「役割」に回収されてしまう。それは、多かれ少なかれ軋轢を生むことになる。

 その役割が、自分が演ずる上で支障のないものであれば、大きな問題は起こらない。しかし、そうではない場合もある。能力を超えた、あるいはその人の意志などに反する役割を背負わされる場合もあるかもしれない。そうなってしまったら、せっかくの「素に戻れる」機会は、ただの苦痛の時間でしかない。



 僕は、担うことのできる社会的役割がめっぽう狭い。だから、組織という何らかの役割を背負わざるを得ないところに帰属することが難しい。そのせいもあって、役割を背負うということは、多くの人間にとって、どちらかといえば苦痛に近いものだと思っていたように思う。
 だからこそ、他人を当たり前のように「役割」として理解することは、できるだけ避けたいと思っていた。
 役割というのは、人が社会を営む上で必要なものだ。だが、同時にレッテルにもなりうる危険性も有している。場合によっては、人を役割と見なすことは、自分にとってのいわば道具や手段のようなものとして扱うことに等しい場合さえあるかもしれない。

 僕が信じそして愛する相手は、社会的な「役割」に回収される存在などではない。どの役割からも逸脱する側面を有している、ひとりの固有名詞としてしか呼び得ない存在だ。例えば恋人や配偶者や親友という名称でさえ、それは自分から見た「役割」の名前であるに過ぎず、その人そのものを認識し表現する上では不足ではないかと思う。


 だから、本来のその人のあり方から外れ、意に沿わない「役割」を演じさせられている状況があるのであれば、それは看過できない。
 もちろん、何らかの目的であえてその「役割」を甘受することあるだろう。それはそれでいい。あるいは、人間には自分に「役割」としての名前が付くことで安心する側面があるとも思う。自らそれを望むのであればそれでいい。
 だが、意に沿わない役割を勝手にあてがわれる状況が、社会のありようとして正当だとは思わない。



 僕は、大切な人を「役割」に回収したくはない。あるいは自分の目的のための「手段」にしたくはない。あくまで「固有名詞」的な存在として尊重したい。主観で判断できる限りでの、自分との関係性や距離感だけが問題で、それがどのような役割という名称を持つかは、正直どうだっていい。
 それは、時と場合によっては辛いかもしれないことをわかった上で、それでもそうすることが誠意だと思っている。

 

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