ちょっとしたお別れの話
普段、自宅に近いカラオケ屋で楽器の練習をさせていただいている。仕事のない平日の日中に、そこそこの頻度で通ったせいか、とある女性の店員さんに顔を覚えていただいたらしい。
実を言えば、店員さんに顔を覚えられるのはあまり得意ではなかった。丁寧ではあるがビジネスライクな対応を保持される方がありがたかった。まあ、顔を覚えられて「毎度ありがとうございます」とか言うのに、全く悪気はないのはわかっている。むしろ親切な対応なのだと思う。けれども、こちらがどうしても人と仲良くなるのが苦手なので、あまりフレンドリーにされるとかえって敬遠してくなってしまうことが多い(ひどい)。
件のカラオケ屋の店員さんは、こちらが引くような馴れ馴れしさで接したわけでは全くない。あくまで、業務としての対応の隙間から、ああこちらのことを認識しているんだなとわかった程度のものだ。単に、こちらの状況や要望をある程度把握して予測した上で物事を進めているだけのこと。だから、不快とか避けようという気には全くならなかった。その辺、先方が絶妙だったのか、こちらが大人になったのか、どちらなのかはわからない。
冷静に考えれば、今まで出会った店員さんのほぼすべては、そういう絶妙な距離感だった気もするのだけれど。そう考えると、自分の態度もあまりいいものではなかったなあと思わざるを得ない。ごめんなさい、仕事してる人たち。
そして先日のこと。その女性の店員さんから声をかけられた。
「実は私、今週いっぱいで退職することになりました。今までご利用ありがとうございました。退職前にお会いしてご挨拶できてよかったです。」
わざわざ退職の挨拶をしてくださるとは。丁寧な方だなあとちょっと感動した。
いやこちらこそお世話になりました。いつも気持ちいい対応してくださりありがとう。どうかお元気でいてくださいね。
……という言葉が咄嗟に流暢に出てきたわけでは、全くない。なんか「それはそれは。いや、なんというか、どうかお元気で」みたいな、あまり気の利かない対応だったような気がする。こういうときの如才ない対応って、なんというか年と共にできなくなっている気がする。適切な言葉が見つからないのだ。これは大人になったのではなく、完全に老化だ。というかまじで脳の健康大丈夫か。
ともあれ、よくお世話になった店員さんは、もうすぐ自分の練習場であるカラオケ屋からいなくなってしまうらしかった。
店員さんから退職の挨拶をいただいたのは、ライブを数日後に控えた日のことだった。だから、来るべきライブに向けて、その翌々日、そしてさらに翌日にも、そのカラオケ屋で練習させてもらうことにした。
実のところ、主に楽器のセッティングと奏法の関係で、よりによって本番直前に悩みが発生してしまっていた。練習のペースを上げたことによる疲労が体に溜まり、そこで楽器のセッティングを変えたりしたほうがいいのかなあと思っていたのだ。そういう事情もあって、カラオケ屋での練習頻度はいつもより上がっていた。
件の店員さんは、退職のご挨拶をいただいた後にも、僕が赴いた時にはお仕事をされていた。あ、まだいらっしゃるな、とか漠然と思っていた。
そして、ある日の会計の時、その店員さんが対応してくださり、こう声をかけられた。
「最後にお会いできてよかったです。」
「あ、今日が最終日なんですね。」
「そうなんですよ。」
「どうかお元気でいらしてください。」
「はい、ありがとうございます。」
その日が、その店員さんがそのカラオケ屋で仕事をする、最後の日だったらしい。
練習を終え帰宅して、しばらくして、ふと思った。
そうだ、あと1週間程度で退職されることはわかっていた。だったら、お世話になってしかもわざわざご挨拶までくださった人に、ちょっとした餞別の品くらい渡したってよかったのではないか。相手の礼儀に対して、こちらもなんらかの礼儀を行動で示すべきじゃなかったのか。
そう思うと、猛烈な後悔が襲ってきた。
いや、そういうとこだぞ俺。
何も邪な動機があるわけではない。……いや、全くないと言えば嘘になるのかもしれないけれど、そういう目的では決してない。
先方の僕に対する対応は業務だけれど、その業務のおかけでこちらは大変快適に練習することができていた。業務上不可欠とは言えないだろう退職の挨拶までいただいて、それに対してなんとも気の利かないお礼の言葉だけで済ますのはどうなのか。もう少し、相手に対して何か配慮とか礼儀とか、そういう何かを態度で示すべきだったんじゃないだろうか。自分のライブに対する不安や迷いばかり頭にあり、他者に対して何をすべきか見失っていたのではないのか。
そうやって思い起こすたびに、後悔ばかりが込み上げてくる。だって、もうそういう思いを伝えることはできないだろうから。
正直、お店から僕の個人情報抜き出して、個人的に連絡くれないかとか思ってしまう。そうしたら、改めてお礼をいうことができるのに。
もちろん、そんなことをする人ではないだろう。
最寄り駅で偶然あったりしないかなあ。そうすれば、「あの時はきちんとご挨拶できなくてすみません、本当にお世話になり、感謝しています」とか、もう少し心をこめたお礼の言葉が出てくるかもしれないのに。
いや、どうだろう。そんなことができるなら、今こんな後悔はしていないとも思う。それ以前に、改めて言おうとする言葉を文字にすると、こちらが想定するほど何かが伝わるようなうまい言葉にも思えない。
そもそも、マスクをしているとどうも人の顔がよくわからないんだよな。偶然出会っても気づかないような気もする。
人の誠意にきちんと応えるのって、いつまでたってもうまくできない。
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