とくべつであること

 過去を振り返ってみると、僕は付き合った女性と別れた後に、友人として関係を持ち続けたことがない。例えば同窓会的な場面のように、偶然に会うことがあったとしても、会話を交わすこともない。
 理由は簡単だ。僕は恋人が欲しいから付き合ったわけではなく、その人が好きで付き合ったからだ。


 人付き合いの悪い僕が、誰かを真正面から好きになるなど、そんなに多いことではない。そのきっかけが何であれ、付き合うということはその人が僕にとって「とくべつな誰か」であるということだ。
 その正面からの付き合いは、世間的な言葉では「恋人」とでもいうべき関係性となることがほとんどだ。自分が相手を求める感情と、相手のそれとの交差点は、大概そういう関係性として結実する。

 しかし、その「恋人」という関係性は、あくまでその人を求めた結果としてあるのであって、「恋人」という関係性を求めてその人を選ぶのではない。
 少なくとも僕がかつて好きになった人たちを、「恋人」というカテゴリーに一括することを、僕は望まない。その人たちは全く別の人格を持ち、それぞれが僕にとってとくべつな存在であり、それぞれとそれぞれの関係性がある。
 だから、本来「恋人」という名称とか、その名称が示すカテゴリーには、大きな意味はない。ただ、その人との関係性があるだけなのだ。面倒だからそういう名前で呼んでいるだけで。


 僕はそんなに人を好きになるほうではないので、「恋人」と呼べる存在が一度に何人も現れることはそう多くない。けれど、「友人」はそうでもない。「友人」は一度に何人も生まれる。「知人」であればさらに多く生まれる。
 それは、「友人」は「恋人」ほどとくべつな存在ではないからだ。もちろん、友人たちにも一人一人個別の人格はあるのだけれど、その人格全てを受け入れているわけではない。冷徹な言い方になってしまうかもしれないが、「友人」はやや抽象化された存在だ。だから、あくまで「その人」を正面から受け入れる「恋人」とは明確に違う関係性だ。
 こういってよければ、「友人」は「恋人」と違ってカテゴリー化され得る。とくべつな存在ではないからだ。


 僕が、「恋人」だった人と「友人」になることができないのは、ここに起因しているのだと思う。
 僕にとって「恋人」だった人は、「恋人」としての関係性が終わりを迎えたとしても、とくべつな存在であることには変わりない。変わったのは関係性であって、その人ではない。とくべつな存在は、「恋人」としての関係性が終わってからも、やはりとくべつな存在だ。
 そのとくべつな人を、一度にたくさん生まれ得る「友人」というカテゴリーの中に入れることは、どうしても違和感がある。その人が僕にとってとくべつであるからだ。とくべつであるということは、他の人と同列に置くわけにはいかないということだからだ。

 ひとりひとり全く違う、それぞれにとくべつな存在は、他の人と同一のカテゴリーの中に囲い込んでいい存在ではない。あるのはただ「その人」との関係性だけなのだ。だから、「その人」との関係性が失われたら、もう関係性は消失する以外にない。
 もし、「恋人」ではない形で、とくべつな人ととくべつな関係性が構築できるのであれば、もしかしたら他の人からは「友人」と見えるようなとくべつな関係性を作れるのかもしれない。けれど、残念ながらその着地点は見つかったことがない。

 反対に、とくべつな人が僕を「友人」「同僚」「趣味の仲間」などのカテゴリーに、つまりは別の人も入り得る一般的なカテゴリーに括ろうとしたら、僕には不愉快に感じるんだと思う。ああ、この人にとって、僕は決してとくべつな存在ではないのか、他の人と同列の、他の人と同じカテゴリーの中に入ってしまえる、アノニマスな存在なのか、そう思ってしまい、不愉快になるのだろう。
 もちろん、相手には僕を不愉快にさせる意図など全くないことはわかっている。でも、そうされることが不愉快だから、疎遠な赤の他人としての関係性に落ち着くことになるのだと思う。自分の目の前にはいない、記憶にのみ存在する人として。

  

 
 僕にとってとくべつな人は、いつまでたってもとくべつな人だ。たとえ「恋人」でなくなったとしても。
 とくべつなひとだから、関係性は「その人との関係」があるだけで、一般的なカテゴリーに収められるものではない。まして、他の人と同列に扱えるわけではない。
 それを無理やり他の人と同列の位置に置き、仲間だの友人というカテゴリーに落とし込むのは、僕のその人に対して有するとくべつさに対する冒涜だ。

 それが、僕にとって、人を好きになるということだ。

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