文字が意味にならない

 活字が頭に入ってこない。

 視線が文字の上を辿っているけれども、意味に変換することができない。文字がただのインクの染みとして上滑りしていく。ここ数日こんな状態が続いていて、まるで仕事にならない。自分の知識も増えず、スキルも磨かれない。これではちょっと困る。

 どうしてこうなったのかは、正直よくわからない。facebookで知り合いの言葉にひどくイラッとさせられて、数日間まともに開いていないのだが、それが直接の原因かどうかはわからない。ついでに言えば、SNSに飛び交う言葉なんてろくな代物じゃなくてうんざりするのだが、それが現状の直接的な理由なのかどうかはわからない。
 わかっているのは、結果として活字が読めなくなっていること。そして忘れかけていた思い出したくない記憶が蘇ってきて、ひどく不快であることだ。


 人は現実を生きる上で、他人や常識や仕組みや様々な物事との軋轢や葛藤に悩まされる。長い期間読み継がれてきた思想や文学は、そのような何ものかとの摩擦の末に生み出されてきたものなのだろうとも思う。もちろん、それはこちらの勝手な思い込みに過ぎないかもしれないけれど。
 とはいえ、自分が何かを書き記すことがあるならば、それはやはり生きる上での現実との摩擦がその動機になっている気がする。現実からすり減らされた自分自身の何らかの「痛み」なり「違和感」なり「不快感」なり、そういったものを自分で理解するために、言葉の形にしてアウトプットしているような気がする。その形にならないモヤモヤとしてうねうねとしたものを、言葉にして整理することで形にして、追い出すことはできなくともしまって置けるようにしているのだ。

 ただ、そのような形で昇華するのには、それなりの時間と労力が必要でもあるだろう。だから、もっとお手軽な形でアウトプットすることもあるだろう。SNSなんてのはその格好の道具だ。
 そして、時々、本来尊敬すべき知性や感性の持ち主であるはずの人から、まだ形になりきれていないうねうねモヤモヤしたものを垣間見てしまうことがある。あるいは、形にする動機とは無縁の、だがその動機とどこかでつながっている、悪意や偏見が現れてしまうことがある。それもSNSという場の特質のような気がしている。

 もっと自分と格闘した言葉を発してくれればいいのに。そういう言葉であれば、動機が同じでも受け止められるのに。自分も学ぶことが多いのに。
 そう思うのだけれど、お手軽にコミュニケーションしたり、お手軽に持て余した悪意を発散したりしたくなるのもわかるよ。
 わかるんだけどさ。


 いわゆる知的専門職の発言でなかったとしても、その言葉にげんなりすることはある。特にニュースなんぞにシンプルすぎる善悪の判断をしている人、とりわけリアルの知人がそんなことしていると、ちょっと面倒だなあと思うことがある。

 例えば、ひどい事件に対して「ひどい」とか、かわいそうな事件に「かわいそう」とか、いや間違ってはいないけど、そんなことわざわざオープンに語る意味あんのかなと思う。もちろん、個人の備忘録としての意味合いとか、それこそちょっとしたガス抜きとか、人それぞれの都合があるので、そういったものを否定するつもりはない。だから、よほどのことでない限り、たとえリアルの知人であったとしても、そうした言説にこちらからわざわざチャチャ入れしたりはしない。
 けれども、向こうからわざわざこちらに絡んでくるのは本当に迷惑。そんなシンプルな感情をこちらに向けられても、そもそも対話になりようがない。
 しかも、そうしたシンプルな感情を吐露する人の多くは、その感情に対する自己分析や自己反省の契機が少ないことが多い。メディアの向こう側の出来事に対する自分の素朴な感情を肯定し、「批評」的な観点を発信ことをよしするあまり、出来事が自分自身にどのような変化や影響をもたらすかという点に無頓着なのだろうと思う。自らはあくまで「評ずる」立場であり、その出来事を通して自分自身が批評の対象になることを想定していないのだ。
 要するに「一億総ツッコミ社会」の典型的な事例なのだ。


 もちろん、こういったことが今の自分が活字を読めなくなっている直接の理由ではないだろう。けれども、そうした「文字を通した自分に対するダメージ」を意識してしまうことは、自分の「読む」行為に何らかの影響を与えているのかもしれない。いやわからないけれど。

 どのような媒体であれ、「誰かが書いた文字」は、読む「私」との距離を通して「私」自身を浮かび上がらせる。それは文字テキストの中に現れるのではなく、文字と私自身の間にある空白に現れる。批評なる行為に意味があるとしたら、その未だ言葉になっていない空白に言葉を与えることにこそある。
 それは、書く人にも言えることだろう。自身の中にある「いわく言い難いもの」を言語化する際、そこにはどうしても言語化しきれないものが残る。優れた文章というものは、おそらく、言語化しきれないものの存在を言語を通して垣間見せるものであるように思う。そこを感受して別の言葉にできる人は、優れた読み手だ。

 けれども、ウェブ上の多くの言葉は、その距離や隙間が見えない。直接的で反射的な言葉に溢れているように思われる。
 それは僕の読み手としての力量が足りないからなのかもしれないけれども。


 でも、活字が頭に入らないのは、やはりそのあたりと関係しているのかもしれない。
 そして、思い出したくない記憶が蘇るのも、そのあたりと関係しているのかもしれない。未だ言葉を通して距離を保つことができないその記憶が、適切な言葉を与えることで成仏させられないその記憶が、距離のない言葉の奔流を通して逆照射されているのかもしれない。


 ありうべき対応は、ただ、引きこもることか。
 あるいは、言葉を介さず、責任を負わず、ただ慰め合うだけの関係か。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?