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月を観る人

 月を観るのが好きだ。

 かつて、mixiに「月を観る人」というコミュニティがあり、思わず加入したことを覚えている。ブログパーツにその日の月齢と月の画像が出るものがあり、迷うことなく使わせてもらった。
 そのくらい、月が好きだ。


 子どもの頃から、星が好きだった。将来は天文学者になりたいと思ったこともあった(大学時代にオホーツクの地で見た星空は忘れられない)。
 だが、当時はまだ月に対してはそこまで心惹かれていなかった。月は星よりも、観る上で一定の人生経験が必要なのかもしれない。漱石が「月が綺麗ですね」というセリフを「I love you」の翻訳としたように、月に関する発言には単純ではない意味が隠されるものなのかもしれない。


 月を愛でるのは、日本では古来から当然のように行われていたようだし、それ自体は珍しいことではないのだろう。だが、僕が月を観るのは、風流の対象としてという意味合いとはやや違う。
 むしろ、月を観ていると、自分の心の中に踏み込んでいくような気分になる。lunaticという単語が「狂気の」を意味するように、西洋では月には人の心を惑わす力があるとされていたようだ。狼男の話などからもそれか伺えるだろう。それと似たような意味で、僕にとって月を観ることは、なんらかの形で自分の心に触れることなんだろうと思っている。それは、自分の中にある狂気を垣間見る機会でもあるのかもしれない。

 そういえば、子どもの頃の月に関する記憶がある。それは、車の中から見た月が、なぜか自分の乗っている車を追いかけてきているように見えたことだ。周囲の風景が次々と後ろに遠ざかっていく中、月だけが中空に止まり、自分たちを追いかけていた、そんな印象だった記憶がある。
 その頃から、月は自分自身とつながっているようなイメージがあったのかもしれない。


 狂気を呼び起こす月だが、ギリシア神話のアルテミスやかぐや姫など、月は女性性と結び付けられることが多い。そのせいか、そのイメージは必ずしも凶暴ではない。むしろ、暗闇の中で仄かに光る静謐なイメージも併せ持っている。
 だから、月を見ることは、自分の中の狂気にも似た部分を垣間見ることだけではなく、それを認識して包み込むような、そんな体験でもある。


 今日も、当然月を見た。地平線のすぐ上に見られる月はやや大きく、ほんの少しだけ不安を掻き立てる。だが、夜も更け見上げるほど高い位置にある月は、今日の天候でやや霞がかっていることもあり、穏やかな表情にも見える。少しでもバランスを崩せば、堰き止められていた感情が溢れ出してしまうところを、すんでのところで、しかし穏やかに留めているような、そんな感じだ。
 それはもしかしたら、今の自分自身の感情の投影なのかもしれない。

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