続・critica=critico 杉田敦×竹内万里子 往復書簡 #4 雨のはじまりに

こちらの往復書簡は、竹内万里子さんと杉田敦さんが『art & river bank』 で2005~2008年に連載していた「critica=critico」の続編です。過去の記事とあわせてお楽しみください。

#1 イメージも絶えそうな日常から……  文:杉田敦
#2 晩夏の朝に 文:竹内万里子
#3 気丈なカナリア  文:杉田敦

<プロフィール>

杉田敦 美術批評・女子美術大学教授。1957年生まれ。art & river bankディレクター。著書に『ナノ・ソート』(彩流社)、『リヒター、グールド、ベルンハルト』(みすず書房)、『inter-views』(美学出版)など。『critics coast』(越後妻有大地の芸術祭)など、アート・プロジェクトも手がける。タブロイドの批評誌「+journal」の編集にも携わる。2017年、リスボン大学の博士過程で教鞭をとりつつ各地の国際展を巡りARTiTで連載。2020年、刊行予定。

竹内万里子 1972年東京生まれ。写真を中心とした執筆、キュレーション。著書に『沈黙とイメージー写真をめぐるエッセイ』。訳書にジョナサン・トーゴヴニク『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』、その続編『あれからールワンダ ジェノサイドから生まれて』がある。現在、京都芸術大学教授。京都府在住。

 このような生活が始まってから、およそ一年が経とうとしています。前回、それを霧の中のドライブのようだと書きましたが、確かに杉田さんのお返事を受けてしばらく過ごしているうちに、私たちのまわりに霧が立ち込めているのではなく、じつはかつてあった霧が晴れたということなのかもしれない、と思うようになりました。
 マスクやモニター越しの生活は、他者や世界との関係をますます排他的なものにしていくようで、文字通り息苦しいものです。いつ来るとも来ないともわからない病の予感は、いくら頭から振り解こうとしても完全に消えることはなく、日々、自らの身体と心の動きに何度となく耳を澄まさざるを得ない。杉田さんのおっしゃるとおり、炭鉱のカナリアであることはもはやアーティストの特権ではなく、誰もがそうでならなければならない、いやすでにそうなのだと言うべきでしょう。カナリアは、自分がカナリアであるということを知っているとは限りません。気づいたときにはすでに、自分が倒れているのかもしれないのですから。
 いま、長く立ち込めていた霧の切れ間に見えているのは、かつて「ある」と思い込んでいた繋がりとその不在であるような気がします。私たちは、いつでも会うことができた。繋がることができた。できる、と思っていた。でもそれは、繋がっていることを意味しない。あくまでも「できる」だけであって「している」のではなかった。「いつでも会える」という怠惰にも似た感覚が、現実と可能性とを大きく混同させてしまっていたのかもしれません。

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