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好きだったはずの読書が3年もできなくなった大学生の話

 本の選び方を、思い出した。
 私なりの読書の楽しみ方、とも言えるかもしれない。
 大学4年生になって、ようやくだ。ここまで本当に長かったように思う。そして、私はこれを書くのが、怖かったのだ。
 このエッセイは、好きなはずの読書(特に物語。小説の類)が続かなくなってしまったあなたに読んでほしいエッセイだ。……とカッコつけたはいいが、場合によっては普通に当てはまらないかもしれない。というか、ほぼただの自分語りだ。でも、エッセイってそういうもんですよね。ガハハ。
 私のように、本を読みたい、好きだったはずなのに読めなくなってしまった誰か、1人にでも刺さればいいなと思って、書こうと思う。

読書が、好き「だった」話


 まず、私が読書を好んでするようになったきっかけから。
 長い思い出話にはなるが、付き合っていただきたい。

 小さい頃、長期休みは必ず母方の実家に帰省していた。子供の足で行ける近場に、公園だとか、ゲーセンだとか、駄菓子屋だとか、そういった分かりやすい娯楽が一切ないくらいの田舎。寂れた商店街を抜けると、見渡す限りの田んぼ。田んぼ。田んぼ。車で15分走ったところにようやくコンビニ。そんな場所だった。
 それでも飽きなかったのには理由がある
 
スーパーの小さな書店で本を買ってもらい、それを読むのが小さな私の日課だったからだ。
 思い返すとそんなに広くはない小さな書店だったが、当時の私からすると宝箱みたいな場所だった。毎日祖母の買い物についていき、カートを押したり、こっそりお菓子を入れたりして(もはや手伝いではない、クソガキである)、一通り買い物が済んだ後は小説を1冊買ってもらっていた。
 読書のきっかけとなったのは、出版社主催の「夏の○○まつり」みたいなキャンペーン。1冊買うとかわいいしおりが着いてきたり、ストラップが貰えたりしたのだ。当時の私といえば、それ目当てに本を買い、そのくせ律儀に読んだ
 そのうち、おまけ目当てで始めた読書に私はすっかりハマり、そのうち、本を選ぶ時は自分なりにしっかり吟味するようになった。特に見るのは、あらすじと文章の読みやすさ。あとは、今思うと実に小学生らしいが、表紙のきれいさも私にとっては大事だった。面白いお話もあれば、よく分からなかったお話もあった。でも、「読まなきゃよかった」と思うことは一度もなかった。結局、小説をとにかく読み漁るその習慣は、高校生まで続いた。


読書の楽しさがわからなくなった話


 さて、そろそろ話を戻そう。そう。読書の楽しさがわからなくなった話だ。
 大学生になってからというもの、本の虫だった私が驚くほど読書を全くしなくなってしまった。受験が終わり、時間的余裕もある。本だって買っている。文章を読めないほど疲れているということもない。それなのに、読んでいなかった。「読みたくなかった」。本を途中で閉じてしまうことが増えた。読んだとしても、心から楽しんで読書を終えられることがほとんどなくなった。
 あれ、私って本を読むのが好きだったはずなのに。どうして、読めないんだろう。
 それは誇張なしに、3年間もの間続いた呪いだった。
 だが、その原因は、紐解いてしまえば実に単純なものだった。

「本当に私が読みたい本」ではなかった話


 当時の私は、本を選ぶ時にネットの評価を検索することにしていた。今の時代、そういう人はかなり多いのではないか、と思う。専用のアプリだって出ているし、ショッピングサイトにはレビューがつきものだ。
 そして私の場合はだが、大学生になって必死に稼いだお金を使うのだから、せっかくならとびきりの読書体験がしたい!という完璧主義な気持ちが強まってしまっていたのが大きかった。だから、レビューを見て、星はいくつかな、どんな評判かな、と参考にしてから本を買うようにしていた一見効率的に思えるが、それがまずかった。
 「レビューが高い。あらすじもまあ、面白そうだし買ってみるか」で買った本は、確かに面白いものは多いが、いつしか読書から私を遠ざけるきっかけになってしまっていた。
 私の「読みたい」の原点は、「知りたい」だったからだ。
 私は、自分自身の選んだ本が、どんな姿を見せてくれるのか。内容の良し悪しだけではなく、それを明らかにしていく過程に読書の楽しさ、そしてモチベーションを見出していたのだと思う。
 例えるならギャンブルだろうか。でも、ギャンブルと違うのは、どういった結果であれ楽しさをもたらしてくれるところだ。
 それがいつしか、お金に囚われて、「読みたい」が「読むべき」とすり替わっていた。しかも、レビューを見ているせいで、ある程度の期待を持って読書に臨むことになっていた。そうすると、「面白いかもしれないし、そうでないかもしれない!どっちかな!ドキドキワクワク!」というよりは、「面白いはず」に固定されてしまう。さらに怖いのは、「絶対に面白い」ではないということだ。これはある意味、中途半端なネタバレを喰らっているようなもので(もちろんそれが有効であることもあるが)、知ることに重きを置くのではなく、結果を求めてしまうようになっていたのだ。そのせいで面白くなかった時にガッカリしてしまったり、面白かったとしても、レビューを見ているので驚きが薄れてしまったりした。
 そうして、疲れて、読書の楽しみがわからなくなっていく。この悪循環に私は陥っていた。

「読みたい」を取り戻した本の選び方


 悪循環から抜け出すために、具体的に私がとった方法としては、2つ。1つ目は、本屋や図書館にいるときにレビューを気にして、スマホを見過ぎるのをやめること。そして「あらすじ・表紙・ほんの少しの本文」だけを見て、ピンときたものを選ぶこと。
 …ん?さっきも見たぞ?と思ったあなたは記憶力が良い。そう、単に、読書が好きだった頃の自分の本の選び方に戻ったのだ。なんだ、結局それかよと侮ることなかれ。なぜならそうした結果、私は今年ずっと本を読んでいるからだ。結局、原点回帰が一番だった。
 読んだ内容が面白くても、つまらなくても、読書が楽しい。読書は、私が選んだ本の、姿を明らかにする旅だから。私にとって読書の楽しみとは、その旅をすることだから。そのことに、気づけたから。
 内容や結末がよくわからなくても、読書は楽しい、と小さな私が思えていたのは、自分の選択に対する結果が得られていたからだ。と、大学4年生の今になって言語化ができた。

終わりに

 私は、3年間、楽しむことができなくなってしまい、本当に苦しかった気持ちが大きい。この大学生の貴重な時間を、読むことを楽しめずに苦しむ時間ではなく、もっと早くこのnoteで書いたような事実に気づいて、小説を楽しむ時間に使いたかったという後悔もある。
 そんな苦しみを通して生まれたこの文章を読んでくれる人が、1人でもいたら、嬉しいな、と思う。

今日も本屋で、私は本を探す。
終着点の見えない、長い長い、旅に出るために。
旅を、楽しむために。

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