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アルプス一万尺

「おまえ、若干音痴だろ」
 陰で「水を差す人」といつか僕が渾名していたくらいの人物である。このくらいのことはいいかねないと構えておくべきだったが、数十年ぶりの邂逅にこちらはすっかり気を許したもので、虚をつかれた格好になった。

「気持ちよさそうに歌うのは相変わらずだがな。音の下がるときにところどころ外れるのが、なんとも気持ち悪いねぇ。あの時分はよく我慢して聴いたもんだ。今日図らずもこれをおまえに直接いうことができて、胸のつかえが下りるようだね」
 人によってはこの物いいは喧嘩を売るも同然だったろう。しかしいわゆる本音を口にしだすのは、友人が上機嫌であることの証しだった。

 たまたま暖簾をくぐった飲み屋に古いカラオケの機材が置かれてあったのである。客は僕らふたりだけだった。歌うか、といいだしたのはほかならぬ友人のほうで、ちょっとした酔狂をやりかねないくらいにはふたりとも酒は回っていた。学生の時分は寄ると触るとカラオケだったし、勤人時代にも接待やら何やらで少なからず行ったものだが、独立してからこちら、少なくとも僕のほうはすっかりご無沙汰だった。腕に覚えのないことはない、歌うたびに上手い上手いといわれた口だから、さてそれではなにを歌うかと昔懐かしの分厚い目録をパラパラめくりだした。

 友人はルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」を歌った。かつての友人のレパートリーにはなかった曲だ。これを友人はアームストロングの声真似をして歌った。
「まさに燻銀じゃないか。若い時分じゃ、こうはいかない」
 世辞をいったそのあとで、僕は中島みゆきの「時代」を歌った。オクターブを原曲より二つ下げて。返歌のつもりだった。歌い終えると、僕らよりよほど年配のマスターが、「いやはや、お上手で」と感想した。ふたりに向けたお愛想と僕は受けとめたが、ひょっとすると友人は違ったのかもしれない。しばしの間のあとで、れいの「おまえ、若干音痴だろ」が飛び出した。

「なんかアカペラで歌ってみ。童謡でもなんでも。音痴かどうかすぐわかるから」
 この男の場合、上機嫌はからみ酒。あれから二十年以上が矢のように過ぎ去って、性癖の変わらないのを見るのは、しかし安心でもある。
「童謡といわれても。歌詞がまず覚束ないよ」
「『アルプス一万尺』ならどうよ。誰もが歌詞も曲も知ってる」
 いやだよ、そんな、人前で、なんて野暮なやりとりは昔から僕は好まない。郷に行ったら郷に従えを金科玉条とするわけではないが、自分でいうのもなんだが思い切りはいいほうだろう。僕は酔いに任せて元気よく歌った。

 アルプス一万尺
 こやぎの上で
 アルペン踊りを
 さぁ歌いましょ


 友人は吹き出した。
「なんだよ、こやぎの上ってのは」
「仔山羊だよ。山羊の子ども。これの上に跨ってさ、アルプスの少女ハイジみたいなのがわらわらといっぱい出てきて、草原を駆け回るんだろ」
「マジか。これは色々と問題発覚。まずアルプス一万尺だが、これはスイス国境のアルプス山脈ではないよ。日本アルプスのことだから」
「え?」
「だって一万尺じゃない。一尺が三十センチメートルだから、一万尺といったらせいぜい三千メートル。本場のアルプスなら四千メートルと歌うでしょうよ」
「最高峰はそうかもしれんけど。標高三千メートルの村の伝統的な祭りであっても不思議はないと思うけど」
「第一ありゃヨーロッパじゃなくて、たしかアメリカの民謡。それに歌詞は日本人が勝手につけたもの。翻訳じゃないのよ」
「そうなの」
「そうさ。だから、おまえが『こやぎの上で』と歌ったところ、あれは正しくは『小槍の上で』で、槍ヶ岳って山が北アルプスにあるだろ、あれに小槍大槍とあるわけさ。孫槍、曽孫槍なんてのもある」
「それじゃ、アルペン踊りってのは」
「さぁね。少なくともスイスの娘っ子らが輪になって踊るような牧歌的な光景なんて、槍の上のあんな剣呑な場所では望むべくもないね。ありゃ、どっかの大学の山岳部の連中が大昔に作った歌詞だっていうね。学生らしい陳腐でお寒いおふざけじゃないの」
 この歳になってアルプスの少女ハイジを山岳部のむさい学生連中に置換しなければならないような思い込み修正を迫られるとは思ってもいなかったから、僕はショックを覚えるどころかなんだか愉快だった。
「さぁ、気を取り直して正しい歌詞で歌ってみたまえ。そうそう、おまえのスマホでさ、録音もしておきたまえ」
 たまえたまえも懐かしいと聞きながら、僕はスマホを取り出した。ほかに客がいないのでなんの気兼ねもいらない。録音のスタートボタンを押すと、僕は正しい歌詞で再び歌い始めた。

 アルプス一万尺
 こやりの上で
 アルペン踊りを
 さぁ踊りましょ


 友人と別れ、帰りの車内でスマホにイヤフォン刺してよくよく聴いてみると、これが思いのほか音程を外しているので僕は愕然とした。ピアノを幼少時に五年ほど習っていたこともあり、自分には絶対音感があると信じて疑わずにこれまで来たのである。ところがこれはどうも怪しいとなった。出だしのソ・ソ・ラ・シ・ド・シ・ラ・ソの最後のソが、録音された自分の歌を聴く限りどうも半音高い。まさかこんな調子っぱずれなところが自分にあるとは、今日の今日まで気がつかずに来たわけである。なんだか肩らへんがうそ寒いように白々と明けてくる。僕には今夜のことではこれが一番の打撃だった。友人の苦言は的を射ていたのだ。いわく「おまえは音の下がるところで調子が外れる」。

 これを自戒としない手はないともこの頃では思う。いい換えれば、「下り坂で踏み外す」だろうから。
 僕も人生の折り返し地点を通過した身である。この先も、どんな思い込みが露見するかわからないと、ちょっと警戒するのでもある。酒が入っておればこその愉快でも、シラフであればほんの些細な暴露も命取りになりかねない。たとえば妻や子らが、僕を愛してくれているどころか、煙たがっていることをまざまざと知らされるとか。
 何事も心構えとは思っていても、生来の音痴なら、外音を聞き違えるなんてこともざらにあるわけだ。いや、もう、これまでなにをどう聞き間違えてきたかわかったもんじゃないぞと思えばこそ、空恐ろしくもなってくる。

 老いるとは、達観どころではないのである。今朝は駅で年配の紳士が、駅員に伴われて改札を抜けようとしたところが、思いがけず自動ゲートに行手を遮られたもので、そこへまるで自ら身を乗り出すようにして倒れかかるのを目撃した。そのとき年配者は誰にともなくなにやら叫んでいた。なにかを叱りつけるようにも聞こえた。うしろの若い駅員は慣れたもので、さっと彼の腕をつかんで転倒を防ぐと、「大丈夫ですから。扉に構わず抜けちゃってください」と静かにいった。僕は改札を反対側から抜ける流れのなかのひとりとしてあって、その後の彼らの成り行きを見届けたわけではなかった。

 学生の時分、自分でも野暮ったいと思わずにいられない田舎出の男学生に、目も覚めるような綺麗な娘がキャンパス内で声をかけてきたことがあった。人生の真理について知りたくはありませんか。たしかそんなようなことを問いかけてきたはずだ。勝手のわからない呑気坊主の僕は、おそらくは鼻の下を伸ばしながら、真理なんてものは年経るごとに勝手に向こうから明らかになるものじゃないかなどと、したり顔していったに違いないのである。娘が予想外に食い下がったのを僕は覚えている。彼女はこういった。
「あなたのいうことが正しければ、世のなかの年寄りはみんな知恵者ということになる。しかし現実はそうでしょうか。ちゃんと世のなかを見て考えて発言されてますか」
 あそこで娘の美貌にほだされなかったのは、田舎者特有の下卑た僻み根性が警戒させたからにほかならなかった。娘についていったなら、僕はどんな真理を得たものだろうとこの頃は思わないでもない。
 少なくとも老いは達観とは無縁であることを、あの娘は知っていたわけだった。

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