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ギャルソンにもオーラリーにもユニクロにもなれない

僕はfoufouというブランドをやっている。
大学卒業後に文化服装学院の夜間部に入りなおして、その在学中にはじめた。元々、ブランドをやりたくて学校に入ったわけではなく「アパレルの内勤になりたかった」という大卒就活の道に迷い入りなおした。

ユニクロになれない

大卒で総合職に就いて販売から始めるよりは夜間の学校に通いながら生産の流れがわかるバイトをしたほうが現場力がつくと考えたわけだ。一見、しっかりしているように聞こえるが、当時の僕は就活がしんどく未来も真っ暗でやりたいことが明確にわからない、強いて言えばアパレルやりたい、、でも総合職ではなくて作る側がいいかなという"逃げ"の選択肢だったと思う。

学校に入ってからすぐにキャリア支援室のドアを叩き、「なんでもいいから内勤の仕事を紹介してほしい」と頼んだところ週に5日フルタイムの「生産管理」の仕事を紹介してもらえた。そしてそのまま別の会社の「生産管理」として内定をもらった。専門学生の花形としてはやはり「デザイナー」か「パタンナー」の志望者が多いし僕も憧れはあったが洋裁も絵も下手だった。絶対なれなそうだったので「生産管理」という隙間を選んだ。挑戦もせず"逃げ"の選択肢の一つだった。

ギャルソンになれない

在学中には先輩たちや同級生が自分たちでギャラリーを借りて「展示会」を行うことが多かった。僕は在学中は一度も見にもいかなかったし、ましてやることもなかった。先輩も同級生もすごい作品を作るのはわかっていた。これはお世辞じゃなく天才はざらにいる。天才だらけだ。それに知ってる人が心込めて作ったものは当然素晴らしい。本人を前にして評論なんてできないし感想を言うのが下手で行くのが億劫だった。とんだ陰キャだ、どうかしている。
そして自分の作品も派手ではないし、誰が見てうれしいんだろうかと思う気持ちが強くやってみようなんてことは1ミリも思わなかった。

僕が通っていた文化服装学院では年に1度の文化祭でのショーが人気で夜間部も学生主体で催すショーがあった。希望の学生は自分で1年通して作品を作り、何度も点検を繰り返して誰でも作品が出せるのだが、僕は3年間運営チームとしては関わっていたが作品を出したことはなかった。

オーラリーになれない

昼間はスピード感のあるアパレルの現場で生産管理をして夜は学校で1着を何か月も作っていく中で違和感ばかりがたまっていった。「この作品は誰のために作ってるんだ?」というもやもやだった。ただもう逃げ道がなかった。自分はこれから働いていく中でどんな人に価値を提供できるだろうと真剣に考えた。ちょうどそのころにInstagramで流行っていた「#お洒落さんと繋がりたい」というハッシュタグを見つけた。

「お洒落さん」というワードを聞くと、服をアカデミックにとらえている人からすれば「俗だ」と感じるだろう。僕もそうだったかもしれない。ただなにかひっかかりがあった。それは僕等が服飾を勉強するあまり「服を楽しむ気持ち」や「お洒落をすること」と離れていってしまったからなのかもしれない。ただこれから僕が自分が携わる会社で作る服を着てほしいのはこういった「お洒落を楽しむ気持ち」を忘れない、アカデミックな物事に囚われず「純粋に服に向き合う人」だった。だから僕はInstagramをはじめた。僕は学校で並んでいても勝負にならないということを知っていた。自分の作るものを少しでも価値に感じてくれる人はInstagramの中に、自分と関わりのない場所にたくさんいた。
これは逃げでもあるが、明確に届けたい人たちがそこにいて、その人たちに届けたかった。

僕は大学生の頃、クレジットカードの限度額まで高い服を買うような人間だった。ただ大人になっていくほど、服より大事なものが多くなりユニクロで納得しちゃうようになった。
でもファッションが好きだ。毎シーズン、10万円近くも使えないけど思いのこもったこだわりのある服に袖を通す瞬間や、着ていく場所を考えたり、ただ部屋の特別な場所にかけてながめるのが好きだった。

そんな昔の僕のような人に「foufou」が必要だと思った。そして現代にはこれまでのブランドの作り方以外にも色んな方法があるはずだと気付いた、だからはじめた。

僕はギャルソンにもオーラリーにもユニクロにもなれない。でも、だからやる必要がある。「なってたまるか」とも思う。それは僕の仕事ではない。foufouとして、「健康的な消費のために」選択肢の一つでありたい。それははじめたときから変わっていない。

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