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三国志の故事成語『呉下の阿蒙にあらず』

この故事成語の出典は、日本男児はみんな大好きな『三国志』です。台湾でも人気はあり、台北にはこんな広告もあります。

台湾の広告に出てくる三国志の張飛
台湾の広告の張飛

「おう、関羽の兄貴!今晩劉備の兄貴んとこで麻雀しねーか!」
とMRT(地下鉄)の中で大声で話す張飛に、周囲の人がうるせーなーという不快な表情。
「車内での大声の会話は控えましょう。誰もあなたの会話など聞きたくありません」
という言葉で締めくくられています。
広告に使われるほど、台湾でも『三国志』はポピュラーなものです。

『三国志』は武将どうしの義理人情や、大軍どうしがぶつかる戦いなど、ドラマティックな展開が多い物語。しかし、『三国志』って2つあるの、ご存知ですか?

歴史書としての『三国志』

これは三国志の時代が終わった後、国家プロジェクトとして編さんされた歴史書のことで、陳寿という人物が中心になって作られました。人物列伝の論評は、魏の後継である晋の時代の歴史書ですが、各人の評価は概ね公平、比較的冷静に三国志の時代を書き記しています。

この『三国志』、意外なところで日本と関わってきます。
学校では必ず習う、邪馬台国の事を書いた『魏志倭人伝』、実は『三国志』の一部です。我々は『魏志倭人伝』と言っているもの、正式名称は

『三国志 魏志 第30巻 烏丸鮮卑東夷伝倭人条』

と覚える気が失せるようなもの。朝鮮半島あたりにいた異民族の記述の「おまけ」のような扱いです。「おまけ」にしては記述が詳細なのですが、これは昔の中国人の記録魔ゆえのことでしょう。

卑弥呼が魏に使者を送った時期は西暦238年。
三国志の時代とリンクさせると、曹操の孫にあたる魏の2代目皇帝曹叡(明帝)が亡くなる1年前(ただし、曹叡が亡くなったのは238年説もあり)。その4年前には、あの諸葛孔明が五丈原で亡くなっています。
呉の孫権は当時まだピンピンしておりましたが、卑弥呼の時代の大陸は曹操・劉備の子や孫が活躍する世代にあたります。

小説としての『三国演義』

我々が『三国志』といっているもの、おそらくその99%がこちら。
『三国演義』とは、『三国志』をベースに書かれた長編小説のこと。元の時代の羅漢中という人物によって、蜀の劉備や彼の周囲の人を中心にして書かれた物語です。
『三国志』と『演義』の大きな違いは、前者の人物論評が概ね公平なのに対し、後者は劉備を主人公とし、ライバルの曹操を「悪の枢軸」とした物語。『劉備=ジェダイの騎士』『曹操=ダース・ベイダー』くらい善悪がはっきりした勧善懲悪ものです。
だからこそ面白いのですが、創作なので史実ではないフィクションや架空の人物も要所要所で出てきます。

小説だけに、ハリーポッターのようなファンタジーも出てきます。
たとえば、諸葛孔明は『三国演義』だと準主役(中盤の事実上の主人公)のせいか、頭脳明晰・清廉潔白の人格、かつ並み居る敵を「魔術」で打ち倒す、ホモ・サピエンスが人類史に誇る完全体。
日本で出版されている『三国志』、たとえば吉川英治版や横山光輝のマンガなどは『三国演義』の焼き写しですが、これを史実と思ってしまっている人が非常に多い。まあ私も中学生の時はそうだったし、こっちを史実と思う方が面白いし頭に入りやすい。

実際、『三国志』は読んでいても非常につまらないです。といっても、歴史書ってそんなものです。
事実を淡々と書いているだけで、そこに編集者の主観は入らない。いや、一切入れてはいけません。仮に入れるとしても、中国の歴史書のように最後に「別章」を作って論評するのがセオリー。
それもあって、中国の歴史書は最後の「論評」を読むだけでも楽しいです。実際、『史記』の「太史公いわく」から始まる司馬遷本人の論評は、時にはやさしく時にはフルボッコと本編より面白いほど。
『三国志』も実はそうで、陳寿の諸葛孔明に対する論評は「政治家としては超一流だったけど、軍事的才能は…並でしょ」とやや辛口だったり。『三国演技』では軍事でも並み居る敵を智謀で蹴散らすスーパーマンなのとは真逆です。

個人的な意見ですが、

「読んでて面白い歴史書はhistory(歴史)にあらず。それはstory(物語)なり」

『呉下の阿蒙にあらず』の背景

三国志からは、『苦肉の策』『泣いて馬謖を斬る』『破竹の勢い』『白眉』など、ふつうに使っている言葉の元ネタの故事が生まれていますが、『呉下の阿蒙にあらず』もその一つ。
説明不要と思いますが、『三国志』の「三国」とは、魏・呉・蜀という中国を分けた3つの国のこと。その中の「呉」に、

呉の武将呂蒙
呉の呂蒙

呂蒙(りょもう)という武将がいました。
彼は貧乏のため学問ができず一兵卒からスタートしたものの、数々の武勲を立てついに将軍まで上り詰めました。ペーペー庶民が能力次第で高い地位に上れる。それが乱世の面白いところ。

しかし、呂蒙は庶民出身だけあって、学問の知識はゼロに等しい。おそらく、字も読めない・書けないレベルだったに違いありません。
現場の親方であれば、それでもいいでしょう。
しかし、将軍になれば幅広い知識と視野、今風に言えば「ゼネラリスト」としての能力が求められます。
会社組織でも、部長クラスがとんでもない無知無学の人間であれば部下が悲劇を見ることになります。「やる気のある無能」が組織でいちばん厄介という言葉もあります。
ましてや戦争となると、上司の無知蒙昧のために自分の生命が脅かされる。

呂蒙の猪武者ぶりを心配した上司の孫権は、彼を呼びこう言います。

「おい、ちょっと勉強せい」

孫権は呂蒙の前に、大量の書物を差し出しました。『孫子』『六韜』などの兵法書から、『史記』『戦国策』などの歴史書、『論語』『老子』などの哲学書。当時の東洋の百科事典のような書物の数々でした。

呂蒙はたじろいなながら、

「いやいや、そんなヒマないっす。忙しいっす」

と逃げようとしますが、

「じゃあ休暇やるから勉強せい。あの曹操は、戦場でも書物を持参してヒマさえあれば勉強しているんだぞ」
(※曹操が戦場でも勉強していたのは事実)

とゆっくり説得しました。
呂蒙はそこまで言われれば引き下がるわけにはいかず、のちの孫権に、

「勤勉さにかけては、呂蒙に勝るものはおるまい」

と絶賛されたほど一心不乱に勉強し、みるみるうちに成長していきました。。


それから月日が経ったある日、呉の魯粛という武将が戦場の前線にいた呂蒙を訪ねます。
魯粛は「呉の諸葛孔明」と言われ、外交官として類まれな能力を発揮し呉に貢献した人物です。『三国演義』では、同じ「智の人」として肝胆相照らす友と同時に、孔明に常に智謀で先回りされ地団駄を踏む道化の役回りですが、史実の彼は孔明と智謀でガチ勝負できる人だったのです。

彼の境遇は呂蒙と真逆で、素封家のボンボン。自分の智謀にも自信を持っていました。よって鼻っぱしが強く生意気なところがある。学生の頃、家が金持ち&成績の良さを鼻にかけて態度がデカかった、スネ夫のような奴が一人くらいいたはず。魯粛はそんな感じのキャラでした。

今回の戦い、どういう戦術で挑むのか呂蒙将軍殿に聞いてみようということでしたが、
「あのおバカ蒙ちゃんをちょっとご指導してやるか、フフン♪」
魯粛のキャラ的にそんな軽い気持ちだったと思います。

しかし、魯粛はあり得ない経験をします。智謀にかけては自他ともに認める当時の呉ナンバー1の自分が、「おバカ蒙ちゃん」に論破されたのです。
魯粛はあっけなく降参。彼の肩を叩き、

 『あの猪武者がいつの間にこんなに勉強して頭良くなってしもて。呉の都におった昔の蒙ちゃんとはえらい違いやんか!』

と白旗を上げました。
この魯粛の、「呉の都におった昔の蒙ちゃんとはえらい違いやんか」の原文が、今回の『呉下の阿蒙にあらず』です。

この故事、もう一つ「ひねり」があります。
呂蒙の「蒙」は、実は「バカ」「ボンクラ」という意味があります。「無知蒙昧」の「蒙」ですね。彼の名前を直訳すると「呂家のおバカちゃん」という意味になり、物語の隠し味としてスパイスを添えています。
『阿』も、中国でも台湾や香港、中国南方では今でもよく使われる(北方では使わない)、「~ちゃん」という親しみを込めた言い方ですが、魯粛は少し見下した使い方をしています。

呂蒙が切り返した名言

魯粛に「呉下の阿蒙にあらず!」と褒められた呂蒙が返した言葉も、今に残る名言です。

「 士別れて三日なれば刮目かつもくして相待すべし 」

これも故事成語として、ことわざ辞典に載っているほど有名な言葉です。
「士は3日間会わなければ、目をこすって見ないといけない」
直訳するとこんな感じなのですが、何のこっちゃかよくわかりません。
そこで、私のオリジナル意訳はこうなります。

「人が成長するのは、3日もあれば十分。3日間会わなかったら先入観捨てなきゃね
(だからあんた、人を無下にバカにするなよww)」

こう言われた魯粛は、「阿蒙」から皮肉までプレゼントされ、サーセンと頭を下げるしかなかった光景が目に浮かびます。
努力によって文武両道のスーパー武将となった呂蒙は、魯粛・諸葛瑾(諸葛孔明の実の兄)・周瑜・陸遜と並ぶ「呉の五大智将」と評されます。ゲームの三国志をやったことがある人はわかると思いますが、ゲームの呂蒙は武力も智謀も数値が高い、どの場面でも使える万能武将となっています。その理由は、この故事から来ているのです。

しかし、呂蒙って日本人が好みそうな文武両道の努力家ですが、『三国演義』ファンにはあまり評判が良くない。なぜならば、『三国演義』の主人公の一人、関羽を殺した張本人だから。

ある戦いで関羽と呂蒙が対決することになりました。
三国志界の戦艦大和こと関羽相手に、駆逐艦でまともに殴り合ったら絶対に勝てないと悟った呂蒙は、ここで『呉下の阿蒙にあらず』の本領発揮。
呉が誇るもう一人のスーパー智将、陸遜りくそんと組み、プライドが非常に高い関羽の性格を利用した策謀を駆使し罠にはめ、ついに捕らえて処刑します。

義兄弟の契を交わした劉備と張飛は、呉のこの行為に激怒。関羽の仇と軍を呉に進めますが、その準備中に張飛は部下に殺され、劉備は陸遜のウェルカム策略にまんまと引っかかり完膚なきまでに叩きのめされ、そのショックで亡くなります。
これにて『三国演義』初盤の主人公三人は全員死亡、事実上の前編が終了するわけですが、その狼煙を上げたのが呂蒙というわけで。

関羽ファンにとっては「親の仇」、蜀ファンにとっては主人公3人を間接的に殺した「憎まれ役」。それが呂蒙の役回り。『三国演義』では関羽の怨霊に呪い殺されるのですが、もちろんこれはフィクション。しかし、惜しいかな呂蒙が若くして死去(数え42歳)したのは事実です。

少し話が脱線しますが、呉の武将ってみんな若死します。『呉下の阿蒙にあらず』の言い出しっぺの魯粛も、45歳で若死にします。
呉の土地は古代より「瘴癘(しょうれい)の地」(伝染病の百貨店)と言われていました。気候風土が伝染病の菌やウィルスの棲息に適しており、それは今でも変わっていません。マラリアに赤痢、肝炎、数々の寄生虫などは当然三国志の時代でも猛威をふるっていたのは容易に想像できます。
乾燥して菌があまり住めない北方とは、別の惑星と言って良いほど気候風土が全く違うのです。

実際に「瘴癘の地」に住んでみると、呉の武将が何故早逝したのかなんとなくわかる気がします。 湿気などで食べ物が非常に腐りやすく食中毒で何回か死ぬような思いをしたし、原因不明の体調不良なんてザラだったので。
当時は抗生物質どころか病気の原因すらわからない時代の「瘴癘の地」では、人が長生きするのは難しい過酷な環境だったでしょう。

また、呉の中国南方は、魏や蜀の北方食文化圏(麦食)と違い、主食が米だったというのも短命の原因になったという考えも可能です。
米ばかり食べていると、「脚気」(かっけ)という病気にかかります。

脚気(かっけ)
脚気は、ビタミンB1が不足して起こる疾患で、全身の倦怠感、食欲不振、足のむくみやしびれなどの症状があらわれます。 古くは江戸から昭和初期まで多くの死者を出しましたが、ビタミンという栄養素について研究が進んだ現在では脚気にかかる人はほとんどみられなくなっています。 しかし、インスタント食品中心の生活をしている現代人に再び脚気予備軍が増えているといわれています。(筆者註:といっても、インスタントラーメンのビタミンB1含有量は侮れないくらい豊富)

(武田薬品工業HPより)

説明の通り、脚気はビタミンB1欠乏症なのですが、放っておくと死にます。死亡率はだいたい15~20%と案外高いのです。

この脚気、白米ばかり食べていると罹ることは、日本では江戸時代から経験則でわかっていました。江戸で蕎麦食がもてはやされたのは、脚気の「予防薬&治療薬」として食べられたからと言われています。
麦食がメインの北方は、脚気などほぼ無縁。麦はビタミンB1が豊富なので脚気にはかからない。米が主食の呉の人たちであれば、米ばかりを食らい脚気になって倒れ、亡くなるということは十分に考えられることです。
科学の発展で脚気がB1不足だと判明し、予防策が講じられた後も、日本での脚気による死者は毎年1万人以上出ていたのだから。

『呉下の阿蒙にあらず』の用法

この言葉は、「以前と比べて見違えるほど成長した」と驚いた時に使われます。
特に、学問や勉強の面の「進歩」に使われることが多く、「前と比べてキレイになった」などの外見にはあまり使われません。使っちゃダメという決まりはないですが。

例えば、中学の時はバカやってた奴が、同窓会で久しぶりに会ったら立派な人物になっていた。
中学の時は勉強嫌いで成績は学年最下位だったのに、本人が勉強の必要性を感じ猛勉強した結果、有名大学を卒業した。
そのあまりの違いに、
「『呉下の阿蒙にあらず』だな~」
(お前、昔と比べて(良い意味で)めっちゃ変わったな~!)
と相手を褒める。こんな具合です。

逆に、「悪い意味で変わってない」という意味にも使うことができます。
「呉下の阿蒙にあらず」ではなく、「呉下の阿蒙」という表現です。

たとえば、中学の時はかなりの悪さをして親を泣かせていた不良が、大人になって犯罪を起こし、全国ニュースの晒し者になってしまいました。聞いたことがある顔と名前を見て驚き、

「あいつ、根はマジメだったんだけど…『呉下の阿蒙』だったか」

という具合に使います。

この用法を使った実際の会話を見てみましょう。
時は昭和11年(1936)、二・二六事件という陸軍最大の不祥事が起きあわや陸軍解体の危機は発生しました。陸軍は世間や大元帥陛下(=天皇)に対して、何らかの「落とし前」をつけないといけない状況に。
その時、陸軍省や参謀本部を事実上牛耳った中堅幕僚、階級で言えば少佐~大佐あたりの軍人が、あんたら軍の偉いさんなんだから責任を取れとばかりに、上官にあたる将軍たちに引退を勧告します。
将軍たちを呼び寄せ、引導を渡すよう迫ったのが、有末精三少佐(当時)でした。

将軍たちは猛反発。部下に「あんた役立たずだから辞めなはれ」と言われる筋合いはないと激怒します。特に、二・二六事件を起こした青年将校たちの「皇道派」のボスと見なされた荒木貞夫大将は、
「坩堝(るつぼ)にたぎった焔(ほのお)の中に、わずかばかりの水を注いでも何もならぬ。我々を辞めさせて誰がやるか!」
と激怒します。それに対して有末少佐は、上司の言葉に鼻で笑うかのように答えます。

「それは『年寄りの冷や水』と言いませんかw ことに我々若い者も決して呉下の阿蒙ではありませんから」

末尾にwwwが垣間見えるほど、上官を完全に舐めくさっている部下の態度ですが、がっちりスクラムを組んだ幕僚たちに将軍たちは為す術もなく、一部を除いて引退せざるを得なくなり、残った将軍も部下の顔色を伺うロボットと化していきました。

また、昔仲良くさせてもらった、三国志オタクな女性の知人がいました。

その彼女が若い頃、今で言えばヒモの元彼に、
「あなたみたいな『呉下の阿蒙』はこりごり!あなたなんて鶏肋よ!」
と三行半を突きつけて別れたことがあるそうです。しかも、「鶏肋」も三国志起源のことばです。三国志の言葉を2つも使って啖呵を切る彼女もすごいですが、言われた方もかなり教養を要すケンカである。

しかし、「呉下の阿蒙にあらず」はあくまで他人から評価して言ってもらうものなので、自分で
「俺は『呉下の阿蒙にあらず』なんだぁ~~!すごいだろ~!」
って言っちゃダメですよ(笑)


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