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つれづれ小説エッセイ ~情景描写②~

 情景描写をするモチベーションは何か?

 創作論では、「5W1Hを書け」とそりゃあもう口酸っぱく言われる。

 ではWhereに当たる情景描写はなぜ書かにゃならんのか?

 情景描写を書くのがメンドクサイという人は結構多い。私も実際に、執筆中「今情景描写書く体力ないわ」と感じたら、マーカーだけつけて実際に書くのは後日に持ち込むこともある。

こんな感じ

 技術的な答えはおそらく小説講座や創作論の本に書いてあると思うのだが、まあ書かなければ不明点が多すぎて、読者のストレスになるからというのが答えの一つだと思う。

 つまり場所の描写というのは「必要だから」「ストレスを与えたくないから」書くものであって、存在しないことで発生するマイナスをゼロにする作業に近いように思う。

 ゼロからプラスを作る作業に比べて、こういったネガティブをニュートラルにするための取り組みは、意欲が湧かない。それでメンドクサイという人も多いのだろう。

 ただ私は、情景描写にはあまり手を抜きたくない。正座をし、背筋を伸ばすくらいの気持ちで取り組みたいと思っている。

 というのも、情景描写に対して思い入れがあるからだ。確かに本音を言えばメンドクサイこともあるのだが、それでも情景描写を大切にしたいと思っている。

 私は昔から、ちょっとストレスが生じるようなことが長く続く期間(例えばテスト期間や、自動車の短期集中教習に通っていた期間)は、ファンタジー作品に耽るきらいがある。

 約600頁ある『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ)もそうした時に読んだ。毎日、夜寝る前などに少しずつ少しずつ読み進め、辛い日々の慰めとした。

 特に癒されたのは、その情景がいかにも異世界然としていることだった。

 現実逃避願望があるときに、現実に即した物語を読むのでは、私はきちんと日常から離れることができなかった。綿密に描写された異世界の情景を読み込み、使われる単語をじっくりと味わい、頭の中に描くことで、私は読書の時間だけでも現実から確かに逃れることができた。

 寝なければならない時間が来て本を閉じても、目をつむって眉間にしわを寄せ、異世界を詳細に思い描いた。せめて夢の中で行けるように。夢幻の世界に、少しでも長くいられるように。

 やはりそのためには、詳しく描写されることが必要なのだ。先のnoteで「書いていない情報は、自分がすでに知っている『似ている場所』の要素を使って補う」といったことを述べたが、完全なる現実逃避のためには、少しでも現実世界のものは閉め出さねばならないから、補われてはならないのである。

 ある程度は、描写の中で世界が完結してほしい。情緒的であればなおよい。耽美で、退廃的で、感傷的であるとよい。

 文章の流れ、単語選びから、すでに世界の構築は始まっている。気は抜けない。

 描写は本来、かなり緊張する作業であるはずだ。時代考証や世界観のズレなどでほころびが出やすく、長ければ読者に負担をかけてしまう。必要十分な量で、読者との共同幻想を作らねばならない。

 むろん描写だけが物語を作るのではないが、描写によってまず読者を引きずり込みにかかりたい。私が作った世界で遊ぶことができるように、その時だけは現実を忘れられるように。

 私が現実逃避をしていたのは、実際のところ、現実から逃げないためだ。辛くとも立ち向かうために、一時的な避難所を探した。娯楽作品にはそういうチカラがある(一応。現実逃避のためだけに娯楽が存在すると言いたいのではない)。

 少し大げさな物言いかもしれないが、情景描写は読者の越境を誘い、支える。作者が創造する世界への特別旅行券である。

 であればこそ、作者にできるのは、旅を快適で楽しいものにすることだ。そうしてツアーコンダクターをやりながら、実は自分も相当楽しんでいたりするのである。

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