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30日越しの答え合わせ

 この大量の写真、無駄にならん?

 特別支援学校での教育実習初日、何よりも強烈な感想がそれだった。口には出さなかったけれど。

 僕が配属されたのは、知的障害児が通う特別支援学校だった。中学部のとあるクラスで、絵の具と紙粘土を用いた美術の授業をした。

 明日からさっそく初回の授業、という緊張の走る初日の放課後、美術担当の先生に呼び出されてこう言われた。

「じゃあ真琴先生、今から退勤までの3時間がいちばん大変だと思ってください」

 そんな微笑みをたたえて何をおっしゃる。

 実習でいちばん大変なのは連日続く睡眠不足であって、そんなたかが初日の、それも子どもが全員帰った後の3時間に何があると?

 疑う脳内とは裏腹に、脊髄反射で「はい! 頑張らせていただきます!」と答えた3時間後、帰り道で心の底からこう思った。

 これは間違いなく、絶対に、さっきの3時間がいちばんキツい。



 3時間かけて僕がやったのは、ひたすら写真を撮って刷って切って貼る、教具の制作だった。これらを黒板に貼ったり、生徒1人ひとりの手元に配ったりして授業が進む。実習校は板書をしないタイプの支援学校だから。

 撮ったのは、パレットに出した絵の具の写真。その絵の具に筆を添えた写真。軽くつぶした紙粘土に絵の具を乗せる写真。それをこねる手の写真。丸める写真。それを、絵の具3色分それぞれに。

 一通り撮影して一瞬気を抜いたところに、先生が笑って言った。

「なに、まだまだ全然終わってないよ先生!」

 今度は、僕が事前に作ってきた見本の作品を一度バラして、組み立てる様子を1枚1枚撮影した。この撮影が終わった時点で、もう1時間半が経過。

 先生から実習生室に戻るよう指示され、大急ぎで指導案の修正を始めて5分が過ぎた頃、今度は先生が鍵と大量のA4用紙を持って現れた。教材室の鍵と、さっき撮った写真のカラーコピー、その数は数十枚。

「教材室から、画用紙4枚と、のりとテープとはさみを取っておいで。そしたらこの写真切って貼って、下に動詞で一言だけ説明も書いてほしい。画用紙の色は任せるけど、支援の一環としてセンス良くね」

 それから授業ではお盆に皿と粘土もセットで置くから……絵の具の筆は混ざらないように色ごとにシールを……この顔写真はそれぞれの皿と粘土に……あとこっちが……。

 残り約1時間半でどうにかするには、失神しそうな作業量だった。けれど、これら全てを何が何でも授業までに成し遂げなければならない。これが完成しないと、明日の授業は成立しない。

「はい! 頑張らせていただきます!」

 で、頑張った結果、終わらなかった。

 切ることさえも叶わなかった写真を8枚も残してタイムアップ。完全退勤時刻は厳守だから、明日の出勤を前倒しにして作業をしなければいけない。見たことない枚数の、撮ろうと思ったこともないものの写真の数々。初日じゃ要領がつかめない。教具の正解も分からない。でもこれが終わらなければ、授業が成立しない。とにかく焦り散らかして、どうしようもなくて、心の中で半ギレになるしかなかった。

 こんな大量の写真はほんまにいるんか??????

 特に「こねる」「丸める」の写真は本当に意味が分からなかった。だって相手は中3だ。ごく普通に楽しく会話ができるし、字も書けるし、雑誌や漫画だって読んでいる、どうして支援学校に通っているのか不思議なくらいの子たちだ。考えの浅い僕は「あれは『はい、こねて~』『じゃあ丸めて~』の一言ではダメだったのか……?」と、最終日まで疑問に思い続けた。

 この「初日の夜がいちばんキツかった話」は、同期との実習の思い出を振り返るひとネタに過ぎない程度の思い出になって、特に繰り返し話すようなことはしてこなかった。

 それをなぜわざわざnoteで晒しているかと言うと、あの写真がいかに必要なものだったか、僕の中で合点がいったからだ。



 実習が終わる直前、僕の進路が確定して、春から一人暮らしを始めることになった。就職するわけではないから、暮らしていくにはとにかくお金がない。料理なんて調理実習でしかしてきていないけれど、どうしても自炊が必要だ。料理初心者がキッチンで途方に暮れずに済むような、分かりやすいレシピが欲しい。実習明けの土日から、僕は検索の鬼と化した。

 ネットに上がっているレシピは確かに庶民的で使い勝手がいいのだけれど、何しろ誰でも投稿できるから、レシピが簡潔すぎて初心者には分からない場合も多い。動画配信型のレシピは目で見てよく分かるし、実際の動きがきっちりイメージできる。でもモノによっては個人情報の登録を求められたり、一時停止ができず毎回最初から再生されたりする。

 鬼は考える。じゃあ何なら快適に理解できる?

 デジタル媒体をいろいろと見比べ、結局行き着いたのは本だった。書店の料理コーナーで何冊か開く。僕の食の好みに合っていて、手軽にできて、分かりやすいものを買って帰りたい。たまたま僕の好物しか載っていない本を探し当てた時、思わずマスクの中で呟いた。

「惜っしいな〜、写真が少ねぇんよな〜」

 あ。

 写真、めちゃめちゃ欲しい。

 それも「『ナスを乱切りにする』っていうのは、こういうことです」みたいなレベルから。

 結局、最小限の情報処理の負荷だけで最大限の情報を伝えてくれるものは、写真なのだと思った。動画が行きかうこの時代には多少アナログだったとしても。

 何を洗って、どう切って、何色になるまで火を通すか。どの材料をどの順番で入れて、どんな調理器具でどう混ぜるか。易しい文章と大量の写真で手順を追ってくれる本を買って帰った。僕が作った教具も、あの子たちにはまさにこういうレシピだったのだと思いながら。

 今思い返しても間違いなく、絶対に、初日のあの夜がいちばんキツかった。でも実習中、教育者としての僕にいちばん価値があったのも、きっとあの夜だ。

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