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サシ飲みと贖罪

「これは、教師人生をかけた贖罪なんだ。10年前の俺が、真琴を殺したかもしれないから」

 先生が僕の目を見て言った。ちょっと待て、まだ1杯目の、しかもノンアルビールでそんなパワーワードを出すんじゃない。



 進学で引越す前にサシ飲みがしたい、と誘ったのは僕だった。相手は、中学校時代の担任。もうかれこれ10年の付き合いになる。13歳の僕にバカデカい好影響を及ぼし、僕の哲学の基盤を形成してくれた先生だ。

 高校2年の冬に、彼にもカミングアウトした。自分を女性だと思えないこと、それを最近家族や高校の先生にカミングアウトしたこと、あなたを経由して僕に繋げてほしい当事者がいること。

 なるべくあっさりした感じを装って震えながら送ったLINEに、先生は電話をくれた。ちょっと混乱気味の、でも一生懸命落ち着こうとしてくれている声だった。「3年も一緒にいたのに、気づけなくてごめん」と言われて、バレないように泣いたのをよく覚えている。

 それ以来、先生は自分のクラスの壁にレインボーフラッグを掲げるようになった。新年度初日の学級開きで「自分は多様性を必ず尊重するし、そういうクラスをみんなと創るよ」と話すようになった。人権教育に熱心になった。そういう色々を経て、僕らは「先生と生徒」ではなく「人間と人間」として、対等に議論できるようになった(と思う)。

 飲みに誘ったのも、僕に「教育学部卒」の肩書きがついたからこそできる議論があるだろうと思ってのことだ。教育学の沼にいる僕らは、文字通り「主体的で対話的な深い学び」を提供しあうのが好きで仕方がない。

 この日、先生もそのつもりだったらしい。乾杯して一度だけグラスに口をつけた後、ほとんどマスクを外すことなく、食事もそっちのけでiPad Proを僕に差し出した。

「これ、総合学習でうちのクラスから集めた課題。今SDGsのプロジェクト立案やっててさ」

 何じゃいその賢そうな内容は、とその時点でおったまげた。提出された課題を見てさらにおったまげた。だってそれが、SDGsのテーマの中からそれぞれに関心があることについて調べ、まとめ、実現可能なプロジェクトとして提案をするプレゼン資料だったから。

 圧倒されて「すご……すご……」としか言えずにスクロールする僕に、先生はさらに付け加える。

「真琴に見せたいやつがあるんだよ、その資料の3つ隣の……」

 指されていたのは、表紙に「〇〇中学校に、男女兼用の制服を!」と書かれた資料だった。充実した下調べ、現実に即したプランニング、そして何より、マジョリティとして堂々と「男女兼用の制服がいい」と言える姿勢が眩しかった。中学校時代の僕なんて、心の底からそういう制服を求めていながら、マイノリティだと迫害されたくない一心で、素知らぬ顔をして男女別の制服に袖を通していたのに。

「すごいね。『私が困ってて必要だから』じゃなくて『これがあったらみんな楽になるよね』って発想で言えることが、本当に素敵だと思うよ」

 素直に伝えると、先生が口を開いた。

「それで俺、職員室で制服規律委員会を立ち上げて、委員長やってるの。制服、本当に変えるよ」

 自分で思っていたよりも遥かに大きい、すっとんきょうな声が出た。制服、本当に変えるよ。頭の中で何度も響く。

「今、第一段階として、セーラー服と学ランはどっちを着てもいいことにできてる。実際にね、何人かの女子は学ラン着てるよ。様子見てる限りじゃ性別どうこうに限らず、スカートが寒いとか、ファッション的な意味でとか、色々あるんだと思うけど」

おじさん先生たちを説得するのがもうほんと大変でさぁ、と彼は苦笑いして、すっかり泡の消えたノンアルビールを煽った。

「防寒でもファッションでも、理由に関係なく選べること自体が最高じゃん。10年前じゃあり得なかった時代が来たね」

 何気なく言って、のんきにフライドポテトを口に放り込んだら、先生の顔つきが急に変わった。

「あり得ないと思ってちゃダメだったんだ。10年前にだって困ってる子はいたわけだからさ」

 あぁ、僕のことか。次の言葉を静かに待つ。

「真琴は覚えてないかもしれないけど、俺に『スカートを穿きたくない』って言ってきたじゃない。でも俺、何も考えずに『でもルールはルールだし、しょうがないよなぁ』とか言っちゃって」

 当時の僕は、まだ自分がトランスジェンダーだとは自覚していなかったから、きっとそんなに思い詰めた末の発言ではなかったはずだ。スカートが嫌なのは本心だったけれど、それを真剣に大人へ訴えるほどの度胸もなかった。ルールはルール、自分にもそう言い聞かせていた。

 そのエピソードが足枷になっていないか心配になり、慌ててそれを補足する。僕はもう覚えてないんだけどね、それはね、たぶんそんな深い意味じゃなくてね、とフォローする僕を、先生は少しだけ頬を緩めて制した。

「これは、教師人生をかけた贖罪なんだ。10年前の俺が、真琴を殺したかもしれないから。冗談抜きで、あの時の俺のせいで真琴が死んでてもおかしくないと思ってるんだよ」

 衝撃で何も言えなかった。先生がそんな風に思っていたなんて、今の今まで知らなかった。変に冷静な自分が、変わらずのんきに「マスクしてて良かったなぁ、絶対今アホそうな顔してるもんなぁ」と頭の中で言う。

「そんな言葉が聞けるなんて、あの時死ななくて良かったわ」

 変に冷静な奴の悪い癖で、思わず軽口を叩いてしまった。先生は「おい、俺は本気だぞ」と笑って、僕のグラスにもう一度グラスをぶつけようとした。僕も軽口の贖罪のつもりで、グラスをテーブルすれすれまで下げて応じた。

 先生はそれで気が楽になったのか、この後の会話の端々でふざけて「贖罪」を繰り返した。一通り喋って、ほんの少しだけ食事も摂って、いくつめかのグラスを空けた先生が言う。

「贖罪に2軒目行こう。生き延びた教え子の進学祝いがしたいんだよ。回らないお寿司とか、まだ食べたことないでしょ?」

「回らないお寿司は食べたことないけど、今日はそんな緊張するつもりで来てないから、2軒目はスタバがいいな」

「はあ? 俺スタバで祝って贖罪するの?」

「今日お寿司に乗らなかった分の贖罪は、今度帰省した時に絶対するから」

「じゃあ夏、回らないお寿司で贖罪パーティーな。ちなみにだけど、俺『贖罪』ってそんなに深い意味では思ってないよ」

 分かってる分かってる、口でそう言うだけで、ちゃんと本気で思ってくれてることくらい。

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