見出し画像

2021年は、もっと偏向した企画を出せるようになりたい!

2020年も本日が最終日。
そんな日のnote記事を任されることになり(ローテーションでたまたまそうなった)、1年の総括とか、読者の皆様への感謝をお伝えするべきなのかもしれませんが、私の言葉が会社を代表した言葉と誤解されるのは困るので、あえてそれはやめておきましょう。

まあ、そもそも会社を代表して語ったところで、当たり障りのない、何の面白味もない内容になることでしょう。運動会の校長先生のあいさつとか、卒業式や結婚式の祝辞的な……。
ところが、世間には、この「当たり障りのない」「毒にも薬にもならない」言葉を求める勢力が、小さくない程度に存在しています。
テレビや書籍の世界でも、すさまじいバランス感覚を発揮して「バランサー」というキャラクターを堅持している人や、タチが悪いのだと、中立的な立場を装って「どっちもどっち論」をぶち、自分が密かに肩入れする(何かしらの利益がある)側の瑕疵を矮小化しつつ、「メタ視点で語ることができる自分スゴイ」的なアピールする人たちがいます。

じゃあ、お前んとこの出版社はどうなんだ?と問われると、頭をかいてしまうのですが……。
大手出版社ならともかく、弊社のような小さい出版社だと、たとえば政治的、あるいは宗教的に偏った主張の本を出すと(仮にその主張に正当性があったとしても)、そうしたイメージの色が簡単についてしまうので、慎重にならざるをえないというのが正直なところです。ビジネス書中心の出版社ですので、ビジネスとは縁のない個性の強い本を出すと、余計に悪目立ちしますし。
とはいえ、個人的には道義的・道徳的に正当性があるのであれば、時には毒になる本も、あるいは特定の誰かや思想を批評・批判する本も企画していきたいという野心は持っています。もちろん、それは会社としても個人としても、ちょっとやそっとの反撃に耐えられるような力をつけることが前提なのですが。

最近、「最近の若者」は誰かを批判することを嫌う・むしろダサいと考える傾向があると、ある若者論を読みました。それが、世代別の政権支持率にも反映されていると……。

ただ、先に記したとおり、「若者」に限らず中立にこだわる勢力は、世代に限らずに多いのではないかと感じています。
たとえば、近年よく聞くようになった「偏向報道」。
「中立の立場から報道せよ」という文脈で使われる言葉なのですが、字義通りに受け取れば、「もっともなこと」ではあります。
しかしその主張の内実は、「最近の若者」がこだわる「中立」とは似て非なるもののはずです。
この「偏向報道」について、『世界の思想書50冊から身近な疑問を解決する方法を探してみた』(北畑順也)中で、リップマン『世論』から読み解いた箇所を、本記事用に一部抜粋・改編したうえで掲載します。

「マスコミは印象操作をやめろ」
「最近のマスコミは偏向報道しかしない」
「マスコミには世論操作をせず公正な報道を希望したい」
 昨今、フェイクニュースという言葉が話題です。膨大な読者や視聴者を持つメディアによる誤った情報伝達を指す言葉として使われます。その関係もあって、「フェイクニュース」が流行するようになってから、メディアに対する風当たりは随分と厳しくなりました。ヤフコメやツイッターなどを見ているとそれは顕著ですが、特定の事業者の報道の大半で「客観的な方法」だの「偏向報道」だのを要求するコメントが流れます。
 ところで、このようなマスコミが「印象操作」や「偏向報道」をしていると批判する方に聞いてみたいことがあります。「偏りのない公正な報道」とは何でしょうか。もしかするとこの質問に対して博識な方であればいとも簡単に回答できるかもしれません。しかし、あなたが仮に相当な博識だとしても、その答えにはツッコミどころがたくさんあると思われます。
 なぜこのような主張をするかというと、「偏りのない中立な情報伝達」など存在しないからです。このことを教えてくれるのがウォルター・リップマンの『世論』です。
 リップマンは元祖ジャーナリストともいわれる方ですが、今読んでも新鮮さを感じるほどメディアとの上手な付き合い方を教えてくれます。

「偏りのない情報」など存在しない
 メディア批判というのは突き詰めると、2つしかありません。
 1つは、冒頭のような「偏向した情報」を「不偏中立な情報」へ加工しろと主張するものです。もう1つが、情報の偏りを前提にメディアのあるべき姿を主張するものです。
 このスタート地点の違いは後の議論に大きな影響を与えます。
 リップマンは、前者を非現実的な発想と批判した上で後者の立場をとります。
 つまり、メディアは常に何らかの理由により情報を偏った形で伝達するということです。そしてこのことを前提にどういうふうに我々は情報の偏向と付き合うのがいいかを考えるべきだと述べているのです。
 このことを理解するには、リップマンの「情報」の捉え方を見ていく必要があります。リップマンはニュースを例に、〈大衆が読むのはニュース本体ではなく、いかなる行動方針をとるべきかを暗示する気配に包まれたニュースである〉と説明します。
 その意図は、大衆にとってはニュースの「本体」は重要ではなく、自分の行動指針を示してくれるニュースを期待しているということです。不偏中立な情報を求める人とは正反対です。

「偏りのない情報」を要求する人たちこそ危ない
 ところで、リップマンの主張は、情報を伝達する側の分析だけでは終わりません。
「報道する側」だけでなく、「報道を受け取る側」の願望や意志も無視できないと指摘します。
 むしろ、「報道を受け取る側」が情報の偏りを求めているからこそ、メディアは偏った報道をしていることが多々あるというのです。
 つまり、リップマンは我々が情報を自分の知らないことの収集に利用するのではなく、今ある感情(結論)をさらに固定化し、偏見を育むために利用している点を批判しているのです。
 ある情報発信者からの情報が「中立」「不偏」なことはありえません。発信しているのが人間である以上、「偏りがない」などありえないのです。しかし、これは情報受信者も同じです。受信者も「中立」「不偏」であることはありえません。
 そういう意味で、メディアの偏向報道を批判し、「中立」「不偏」を要求する人たちこそ危険な人たちなのです。この人たちは二重に危険です。
 1つは、情報がいかなる偏りもなく存在しうると考えていることです。もう1つは、その要求する人たちが自分のことを「偏りがない」人間だと無意識に考えていることです。
 根元には自らの完全性を過大評価しているナルシズムがあるわけですが、誤った認識だといわざるをえません。
 いかなる人間であれ「思考」「意志」「判断」を通して情報を処理するわけですが、そこにはそれに先立つ「感情」があります。そのような人間の本性に向き合うことなく、「自分が求める情報」を「客観的な情報」にイコールで結んでいるわけです。自分の不完全性を無視し、そのことをメディアのせいにするとは傲慢ではないでしょうか。
 鶏が先か卵が先かはわかりませんが、結局、〈問題となるのは、ステレオタイプの性格と、それを使いこなすわれわれの融通のきかない馬鹿正直さ〉なのです。

リップマンの伝える上手なメディアとの付き合い方
 メディアに対して、〈われわれが最大限の独立を保つために実行できる方法は、心を開いて耳を傾けることのできる権威者たちの数を増やすこと〉しかありません。
 なぜなら、「中立」や「不偏」を特定のメディアに期待し、実現させることは人間が運営するものである以上難しいからです。ただ、個々の媒体としてはその理想が為しえなくても、社会全体としてその理想に近づけることはできます。
 それは複数の報道機関による多様な言論が並存する状況をつくることに他なりません。この結論は我々自身にも当てはまります。それは我々も多様な言論に触れることです。
 昨今は同人誌のような「自分の聞きたいことだけを垂れ流すメディア」のみを嗜好する方々がいます。
 一方で、そのような方々は、自分と異なる言論メディアには非常に不寛容な立場をとります。このような形での情報の向き合い方は、リップマンのいう「メディアとの上手な付き合い方」とは真逆の考え方です。
 こういう人たちは情報を収集するためではなく、偏見を育むためにメディアを使っています。
 彼ら・彼女らの口癖は「偏向報道をやめろ」ですが、まさに自己認識を過大評価していることを示している発言です。
 偏向するのは、メディアだけでなく自分自身もありえるという認識が何よりも重要ではないでしょうか。
「偏向報道をやめろ!」という人がいたら「偏向するのは当たり前なんだよ!」といってやってください。

著者の北畑さんは、今やチャンネル登録数4万人を超えYouTuberとしても活動しています。ほぼ毎日更新しています。
時の権力者たちをバッタバッタを斬り倒す、歯に衣着せぬ物言いをうらやましく聞いています。

2020年最後の投稿とは思えない内容になってしまいました。
そんな記事を読んでくださった皆様、どうもありがとうございました。

(編集部 石黒)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?