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専門性を身につけたいなら「役に立つ」知識やスキルを追うな

基本的にみんな、「役に立つ」ものが好きです。「この百均アイテムは料理をするときに役に立つ」とか「この知識は海外旅行の役に立つ」なんて日常でよく使われます。基本的に、私も役に立たないものよりも役に立つものが好きで、よく利用します。
そしてビジネスにおいても、より役立つ知識やスキルを人は求めます。今だったら、ChatGPTとかでしょうか。
しかし、先月の新刊『替えがきかない人材になるための専門性の身につけ方』の中で、著者の国分峰樹さんは、「専門性が身につかない4パターン」の1つとして「役立ちそうな知識を吸収しようとする」ことを挙げています。

ハイブローな内容ですが、早くも先日2刷が決定しました。ビジネスのプロとして生き残るために必読の一冊です。

いったいどういうことでしょうか?
以下に、本書から該当箇所を一部抜粋、本記事用に改編して転載します。


すぐに役立ちそうな知識を吸収しようとする 
*専門性が身につかないパターン1

 まず最初のパターンは、すぐに役立ちそうな知識あるいはすぐ使えそうな知識を吸収しようとするというビジネスパーソンです。
 専門性を身につけるという観点から、なぜこの行動がダメかというと、すぐ役に立つことはすぐ役に立たなくなるからです。この言葉はさまざまなところで引用されていますが、その元をたどると、慶應義塾の塾長を務めた小泉信三さんが、『読書論』(一九五〇)において〈すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本である〉という名言を残したことがオリジナルだと考えられます。
 この言葉はどういう文脈で出てくるかといいますと、小泉信三さんが慶應義塾長の在任中に、藤原工業大学(現在の慶應義塾大学工学部)の設立に尽力し学長を兼任していた際に、学部長だった谷村豊太郎さんが「世間の実業家方面」からよく言われる「すぐ役に立つ人間を造ってもらいたい」という注文に対して、「すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなる人間だ」と応酬して、藤原工業大学では基本的理論をしっかりと教え込む方針を確立した、という逸話が元になっています。小泉さんは、「すぐ役に立つ人間はすぐ役に立たなくなる人間だ」というのは至言だとして、それと同様の意味において「すぐ役に立つ本はすぐ役に立たなくなる本である」と言ったのです。
 そのうえで、ショーペンハウアーの「良書を読むには悪書を読まぬことを条件とする。人生は短く、時と力とは限られているから」という言葉を引用して、良書の選択が必要だと続けます。そして、読書の利益というものについて〈手取早い実用という意味ではない〉として、すぐ役に立つ本として六法全書や受験の過去問、料理本から電話帳、旅行案内までを挙げて、〈この種の本は、右から左へすぐ役には立つけれども、立ってしまえばそれ切りで、あとには何ものこらない〉と喝破しています。
 すなわち、〈日本でいえば福沢諭吉の「学問のすゝめ」や「文明論之概略」のようなより現実的な名著を読んだからといって、そのすぐ翌日から〉〈どんな実利益があるとは誰れにも言えない〉と考えているのです。福沢諭吉については、〈明治の始めに学問の実用ということを強く説いた警世者であった。しかもその福沢が、学問はいわば無目的に、そのこと自体に熱中しなければ大成するものでないと訓えたのは、注意して聴くべきところである〉と述べています。
 福沢諭吉が「実学」ということを重んじていたにもかかわらず、「役に立ちそう」「使えそう」ということを意識して学んでも、ものにならないと考えていたのは、非常に興味深い点です。
 福沢諭吉は大阪にあった緒方洪庵の適塾で学びましたが、〈江戸では学問が金になる。或いは立身出世の手段になる。大阪では全くその機会がない。したがって学問をするものは、ただ学問のために学問をする。これがかえって大阪の学問のために幸いした〉と語っていたことが紹介されています。
 ここで重要なのは、「役に立つということの時間軸」を意識しなければならない点です。役に立つ知識の賞味期限がどんどん短くなるなかで、今すぐ役に立ちそうな知識を吸収しても、瞬く間に使えなくなってしまいます。そうやって役に立つ知識の吸収と発散を繰り返すような自転車操業をしていても、専門性は身についていきません。
 この点について、東京大学名誉教授の吉見俊哉さん(二〇一六)は、「役に立つ」ということは多層的であるとみています。一年・三年で役に立つことと、五年・一〇年というスパンで役に立つことがあり、時間的な違いに加えて、会社にとって役に立つこと、産業にとって役に立つこと、国や社会にとって役に立つことなど、いくつものレベルの違いもあります。
 また、役に立つという価値の軸は決して不変ではなく、価値の尺度は必ず変化すると示唆します。ひとつの価値軸にのめり込み、それが新たなものに変わったときにまったく対応できないということは避けなければなりません。価値の尺度が劇的に変化する現代において、前提としていたはずの目的が、一瞬でひっくり返ってしまうことは珍しくありません。つまり、VUCAと呼ばれる「変動性」(Volatility)「不確実性」(Uncertainty)「複雑性」(Complexity)「曖昧性」(Ambiguity)がうずまく時代のなかでは、すぐ役に立ちそう(使えそう)という基準はきわめて短絡的なものであり、本質的な学びには結びついていかないことになります。


「アイツはチームにとって役に立たない」「役に立たないことばかりやるな」なんて言葉を聞くと、「役に立つ」ことへの反発心が芽生えませんか? まるで役に立たない人間、役に立たないことをする人間は価値がないように聞こえます。私自身も役に立たない側の人間だという自覚があるので、余計に身につまされます。
一方、「お前は役に立つ」と言われて素直に喜べますか? まるで人をモノとしか見ていないような物言いです。それに、上述によれば、今役立つ知識やスキルほど、すぐに「役立たず」になるとのこと。
文学も映画もスポーツも、ほとんどの人にとっては存在しなくても生きていけます。しかし、それでは人生は味気ないでしょう。そう、役に立たないものこそが、人生を豊かにしているのです。
仕事においても、今すぐに役に立つかどうかわからない知識やスキルでも、将来的に役立つときが来るかもしれません。仮に役に立たなかったとしても、そうしたものを追究したプロセスと経験が、また別の知識を深掘りする際に生きてきます。傍から見れば無駄と思われるものでも、まわりまわって自分の仕事の養分となるわけです。そう考えると、自分の仕事への向き合い方も変わってくるのではないでしょうか。

(編集部 いし ぐろ )


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