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変化に対応しようともがくのではなく、 ダメな自分に気づくこと

編集部の稲川です。

先日、緊急事態宣言も明けて、久しぶりに会社からデザイナーさんの事務所に出かけました。
近況の話なども含め、いつもより雑談が多くなりましたが、ちょうど装丁のスケジュールの調整をしていた時に、「毎日、会社に出社しているの?」という話になりました。

実際には、私の場合はコロナ禍での働き方とほとんど変わりません。
コミュニケーションの必要性から、編集部で直接顔を合わせようという日が1日、それと自分の仕事に合わせた出社1日と、1週間に2日出社ということで、今後もコロナ禍の働き方と一緒です。

デザイナーさんの話によると、この10月から完全に元通り、月曜日から金曜日まで出社という出版社もあるようで、それはそれで元に戻すのもしんどいだろうなと感じます。

リモートワークにおける仕事にも長所も短所あり、私もどちらがいいのかはわかりませんが、これからは週3リモート、週2出社という枠組みで働くことになります。
とにかく、このワークバランスで、リモートと出社の生産性の最大値を取ることが会社から求められるということになります。

リモートには、時間的な自由度が増すという長所があります。毎週書いているこのnote記事も静かに自宅で作業できますし、私の本棚からいろいろな本を引っ張り出してくることもできます。
もしこれが出社での仕事なら、あれこれ本を選んで書くことができないので、おそらく前日に書くという時間の段取りをしなければならなくなるでしょう。

いっぽう、出社すれば社員の方と直接コミュニケーションが取れるため、連絡や報告もいちいちメール、メッセンジャー、チャットワーク等で対応しなくてもひと言で済むことが多く、また問題解決もその場で処理することもできます。

いずれにしても一長一短があり、そのなかで最大公約数を取っていかなければなりません。
それゆえに、1週間をどう過ごすか、時間のつくり方が大切になってくるのではないかと思います。

50歳を迎えた私は、仕事をしてきて20数年ぶりに1人になる時間が生まれました。一時、フリーで仕事をしていた以来です。
ただ、あの時に1人で仕事をしていたのとは、まったく感覚が違っていて、人生そのものを考えるようになりました。もちろん年を取ったからでもありますし、若い時分は働くことで精いっぱいだったのかもしれません。

フリーランスで仕事をしている方からは、「今さら何を」と言われてしまいそうですが、私にとってはコロナ禍で経験した働き方をしっかりと時間割として棚卸しする必要がありそうです。

と、前置きが長くなりましたが、新しい変化に遭遇すると自分がいかに対応しきれていないかという、自分のダメさ加減が見えてきます。
これまでも、テクノロジーに適応できていない自分、相手の仕事を後回しにしてしまった自分、土日も仕事する羽目になってしまう自分など、あらためて働き方を考えなければならないなと感じます。

そんな感情のまま、本棚から取った1冊があります。

『パン屋のヤコブ』(ノア・ベンジー著、デーブ・スペクター訳、DHC、1999年5月刊)

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この本は、私が発売当初の28歳に買った本だということがわかりました。
というのも、本の中に書き途中の愛読者ハガキが挟まれていたからです。表面の氏名・住所などを記載する欄に、年齢28歳と書いてありました。また、「お買上書店」という欄には、紀伊國屋書店新宿本店と記してありました。

当時、ベストセラーだったから買ったのか、その時の悩みを解決してくれそうと思って買ったのかは定かではありません。
ただ、購入欄に“自費”と丸を付けていますから、何か期することがあったのかもしれません。
裏面の「購入動機」や「感想」などの欄は白紙ですので、当時の私の感情を知る由もありません。

ただ、サブタイトルはこうありました。
「複雑な世の中のための心やさしい哲学」。

なんだか、悩みのもとが今も昔も変わらない自分に苦笑しながら、また本を読み進めてみました(帯の“あなたの心を16t軽くする”というキャッチは笑いました)。

ある村のパン屋で働くヤコブ。彼はつつましく、勤勉で、誠実さと謙遜さをもったパン職人。そして、常に心の平和を願い、祈りを捧げて、いつもおいしいパンをつくっていた。
そんなヤコブは、パンが焼き上がるまでの間、人生について考えたことを紙に書き留めていた。ある時、その紙片がパンととも紛れ込んでしまったことから、そのパンを買って行った女性によって偶然見つかってしまう。
しかし、それがきっかけとなって、村中の人たちがヤコブにさまざまな悩みを打ち明けに来るようになった。
また、そんなヤコブの話を聞こうと、いつもパン屋には多くの子どもたちまでも集まって来た。
 
ある雨が打ちつける日、ヤコブがパン屋に向かう途中、1人の学生が彼の助言を求めて雨の中に立っていた。彼はヤコブのそばに走り寄り、並んで小走りに歩みを進めた。
「ヤコブさん、人間の限界って何でしょうか」
「その人、1人ひとりに聞いてくれ」歩みをゆるめることなく、ヤコブは言った。
「もしその人に知識の限界がなかったら?」
「そのことでその人がわかるだろう」
「でも」と、その学生はしつこく質問を続けた。
「それじゃ、知恵へ到達する道とは何でしょうか?」
「謙遜だよ!」が、その答えだった。
「その道はどれくらい長いんですか?」
ヤコブは答えた。「わからんよ」
 
ある時、ヤコブはゴールド氏という病床にある老人のもとを訪ねた。
彼は死を前に、ちっぽけな人生にしがみついて生きてきたことへの悲しみに打ちひしがれていた。
ヤコブは、時間という根が思い出や約束を守ってくれると伝え、ゴールド氏を覚え続けると約束する。そして、自分もいつかお仲間になる日を伝えて・・・。
2人の間には静かな沈黙が訪れ、静けさの中にそれぞれの音楽を奏でる。
やがて頃合いを見計らい、最初に口を開いたのはゴールド氏だった。
「ヤコブ、あんたはどこで人生を続ける力を見つけたんだね?」
「人生は続けようとするから、しばしばそれは重たいものになるんですよ。でも、私は、灰の中にその力を見つけました」
ヤコブは、まるではるかな距離を旅してきたような、自信に満ちた声で言った。
「私たちはみんな独りぼっちです。みんなが、自分たちの無知という膨大な暗闇の中にいます。そして、みんなが旅をしています。
旅の途中で、私たちは明かりや暖をとるためや食べ物をつくるために、身をかがめて火をおこします。
でも、誰かが火をおこしたところに炭が残っていないかと地面を指でさぐっても、あるのは灰だけです。そして、明かりも暖かさももたらしてくれない灰は、私たちを悲しませます。
けれども、そこにははっきりとした証拠もあるんです。つまりそうした灰は、誰かがその夜そこにいて、火をおこし、旅を続けていたことを私たちに教えてくれんですよ。それだけで充分なときもあるんです」

ヤコブは、人間が無知であること、それゆえに謙虚に生きていくことの大切さを伝えてくれます(そして、人生には希望があることも)。
あれもこれも求めてできないダメな自分、無知な自分にあらためて気づかされました。

人生はよく旅にたとえられます。
旅では想像もしなかったような出来事に出会います。
働き方の変化は、それを乗り越えようとする旅の出来事の1つなのかもしれません。

その出来事に謙虚に向き合えるかどうか。
ヤコブはここ言います。
「もっと多くを望むなら、より少なくなること願いなさい」

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