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今だから読んでおきたいデュルケーム『自殺論』

90年代後半から00年代前半にかけて、日本の自殺者数は毎年3万人を超えていました。
しかし、その後10年間、自殺者数は減り続けたのですが、2020年から増加傾向にあります。著名人の自殺が社会に大きなショックを与えたことも記憶に新しく、再び大きな社会問題として「自殺」にスポットが当たっています。


「そもそもなぜ死にたくなるのか?」
その理由は個々人によって違うでしょう。借金苦、失恋、うつ、病、いじめ……そうした個人的な要因というのはなんとなく想像できます。一方、自殺の要因を個人に結び付けず、マクロ的な視点に立って分析した古典的論考があります。それがデュルケームの『自殺論』です。

「古典的」と記しましたが、今の私たちからするとかなり斬新。
私もそのうちの一人ですが、多くの人が自殺の要因を個人的な問題に結びつける傾向があるのではないでしょうか。そうした観点からすると、デュルケームの論考には違和感を覚えるかもしれません。
しかしながら、コロナ禍・分断といった大きく社会が動いている今だからこそ、私たちはデュルケームから大きな示唆を得られると思うのです。

そこで、北畑淳也『世界の思想書50冊から身近な疑問を解決する方法を探してみた』で、「なぜ死にたくなるのか?」という観点から『自殺論』を解説している箇所を、本記事用に一部抜粋・改編したうえで掲載いたします。

自殺の原因への誤解

 まず、一般的に認識されている自殺の理由が事実と異なるというデュルケームの指摘から見ていきます。
 デュルケームによれば、我々は自殺の原因を個人的な要因のみで理解しようとする傾向があります。「個人的な要因のみで理解しようとする」とは、たとえば「仕事がつらいから自殺した」や「お金に困っていたから自殺した」と説明することです。
 この説明を聞いて、「当然だ」と思う方が多いかもしれません。しかし、このような形で自殺の原因を理解するのは、本質を捉え損ねていると彼は考えています。
 たとえば、我々は経済的に困窮すると自殺しやすくなると考えがちです。しかし実際、〈人が最も容易に生を放棄するのは、(中略)生活に最も余裕のある階級においてである〉という一般的なイメージと異なる資料を提示するのです。
 それでも、多くの人が自殺の原因を個人的な要因に求めます。遺書を残して自殺をする人などはまさにそれに該当します。デュルケームも自殺の原因を〈それらの外部的な出来事に求めず、むしろ本人の内在的な性質、すなわち本人の生物学的構造およびその基礎をなす物理的な付随現象に求め〉ている現状を認識しています。
 では、なぜデュルケームは自殺の原因を内在的性質に求めることを批判するのでしょうか。
 その理由はいくつかあるのですが一例だけ取り上げます。さまざまな国の自殺に関するデータを見ると、継続して一定数の自殺が発生していることをデュルケームは指摘します。このデータがなぜ大事なのかというと、もし個人的要因だけならもっと統計データの上下が激しいはずです。

毎年自殺が発生しているばかりでなく、一般的原則として、前年とほとんど同数の自殺が毎年発生しているのだ。

 自殺者数が毎年一定数いるということは、「自殺をしたくなるという条件付けに当てはまるような人間」を、一定数生み出す社会構造があるのではないかということです。
 つまり、個人的要因以上に我々を自殺に追い込む社会的要因があるのではないかと考えることがいかに重要なのかを、デュルケームは伝えているのです。

自殺の真の原因

 このように、社会が個人を突き動かしているという発想は、「社会学的アプローチ」と呼ばれます。マックス・ヴェーバーが有名ですが、デュルケームもその重鎮の1人です。
 ただ、この考え方は一般の人には馴染みが薄いかもしれません。
 なぜなら、〈まず何よりも、社会が個人だけから成り立っているとする〉考え方が根強いからです。しかし、先の例で示したように多少の上下はありながらも毎年一定数の自殺者がいることを鑑みれば、個人の死への願望だけで自殺のすべてを説明することは不可能です。
〈毎年毎年の一握りの自殺者は、別に自然の集団を形成しているわけでもなく、また互いに意思の疎通があるわけでもない〉のであり、〈自殺数のあの恒常性は、個人を支配し、個人よりも永続する同じ原因作用に基づいているという他ない〉のです。
 では、デュルケームは自殺の原因を何に求めているのでしょうか。
 端的にいえば、〈その病弊を防ぐには、社会集団を十分強固にして、個人をもっとしっかりと掌握できるようにするとともに、個人自身も集団に結びつくようにさせること以外に方法はない〉といいます。〈時間的に個人に先んじて存在し、個人よりも永続し、あらゆる面で個人を超えているような集合的存在に、個人は一層連帯を感じなければならない〉というのです。
 実際、デュルケームは別の箇所で都市部のように共同体の結束が弱い地域ほど、自殺率が一定していると主張します。

社会を構成している個人は年々替わっていく。にもかかわらず、社会そのものが変化しない限り、自殺者の数は変わらない。パリの人口は猛烈な勢いで流動しているが、それでもフランス全体の自殺にパリの自殺の占める割合はかなり一定している。

 彼の主張の核心はここでも述べられています。それは、個々人に向き合っているだけでは不十分で、自殺を慢性的に引き起こす社会的構造に着目すべきだということです。
 具体的に、自殺を慢性的に引き起こす構造とは、「個人主義が吹聴される」社会です。個人主義というイデオロギーについて、デュルケームは次のように語ります。

人格の尊厳が行為の至高の目的となっていて、(中略)個人は、容易にみずからの内部に存在する人間を神とみなし、自己自身をみずからの崇拝の対象とするかたむきがある。

 この考え方が自己本位主義を生み出す傾向があり、「自殺」という行動へ導きやすいのだとデュルケームは述べます。
 逆に〈自己犠牲や没個人性がきびしく要求される特定の環境においては〉みずから生を捨てるということは起きにくいといいます。それは自分を超える何かがあり、自己本位的に生を捨てるという行動に結びつきにくいからです。

自殺を減らす方法

 では、デュルケームが、自殺をマクロ的に減らすにはどうすべきだと考えていたか。
 デュルケームは「職業組合」にその活路を見いだしました。
 なぜ宗教でも、家族でも、政治結社でもなく、職業組合に活路を見いだしたのでしょうか。
 3つの理由を彼は挙げています。

常時存在していること、どこにでも存在していること、そしてその影響は生活の大部分の面に渡っていること。

 この3つが〈他のあらゆる集団にもまして〉優れている点なのです。
 今の時代の投票率の低さや無宗教の人の多さなどを見ると政治集団や宗教会合は多くの人にとって関心を引くものではありません。ただ、そういうものに無関心ではあっても仕事はしています。仕事の仲間から形成される職業組合に活路を見いだすことは理にかなっているわけです。
 もちろん、「連帯」が「抑圧」になりがちな日本社会では、この意見に慎重になるべきです。
 たとえば、新入社員が宴会で裸踊りをさせられることによって正式に組織に迎え入れられる儀式となる様は見るに堪えません。しかし、職業組合により個人の自己本位的自殺を防止することが期待できるのであればそれは素晴らしいことです。
 昨今では、「独りで生きられるようになりたい」という風潮があります。実際、それを裏付けるかのように、孤独になることを楽しめることが人生の成功につながるというテイストの本が書店に並ぶ現状は世相を表しているといっていいでしょう。
 この「孤独」賛美というのは、実は単なる現状の追認でしかないものをさも自分が積極的に選んだかのように認識させる自己欺瞞でしかない可能性があるのです。しかし、この孤独をひたすらに正当化するという思考は人生にとって有意義なものといえるでしょうか。デュルケームの著書を読んでいると、あるべき社会と正反対のようにも見えます。
「幸福になりたい」と多くの人が願うのであれば、社会をバラバラの個人の集まりにする方向性にはむしろ懐疑的になるべきではないでしょうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

(編集部 石黒)



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