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選挙のたびに考えてしまう多数決という便利で身近な制度

選挙のたびに腹立たしく思うのが、小選挙区制という選挙制度です(元凶は小沢一郎。中選挙区制を廃止し、小選挙区比例代表並立制に移行させた張本人。日本をぶっ壊しすぎ)。
1つの選挙区から1人しか当選しない小選挙区制よりも、複数人が当選する中選挙区制のほうが、国民の多様な声を政治に送ることができるはずです。
小選挙区制では、たとえ1票差であろうと得票数が多いほうだけが1人勝ち。勝った候補者・政党はそれを「民意」だとばかりに勝ち誇るのですから、負けた候補者に投票した人の意思は抹殺されたかのような気分になります。

こんなことを言うと、「多数決という民主的な方法で選んでいるんだから文句を言うな」という反論が出てくることでしょう。
ごもっともなのですが、「ぐぬぬ……!」と潔く納得できないものがあります。「〈多数派の意見だから正しい〉というわけではないだろ!」と。
しかしながら、多数決という制度は、会社の会議ではもちろん、小学校の学級会でも使われるほどの身近で便利なもの。そして、自分の意見が通らなかったというだけで、制度そのものを否定できるものでもありません。
では、「多数決」の本質とは何でしょうか?
それを知るヒントになるのが、北畑淳也『世界の思想書50冊から身近な疑問を解決する方法を探してみた』の中にありました。

「多数決とは何か?」というテーマでハンス・ケルゼン著、長尾龍一、植田俊太郎訳『民主主義の本質と価値:他一篇』を紹介している箇所を、一部抜粋してお届けします。


「では、会議も終盤になってきましたので、最後は多数決で決めます!」
「どこに行くかは多数決で決めましょう」
「どちらの意見が正しいか多数決で決めましょう」
 政治の世界では常識ですが、一定数の人が集まって議論を経た末に、ほぼ必ず多数決をとります。一番頻繁に用いられる決議方式といっても過言ではないはずです。
 ところで、なぜ多くの人がこの方法を採用するのでしょうか。
 理由として、「最も多くの人が賛成しているから、意思決定の妥当性が高い」と考えるからかもしれません。まさに我が国の国会では、そう考えている政治家が多数います。多くの重要な法案が世論の懸念などをよそに、過半数だから好き放題やらしてもらうよと言わんばかりの進め方で採決されました。
 しかし、「多数決」をこのように理解することは不適切だと指摘する本があります。ハンス・ケルゼンの『民主主義の本質と価値』です。
 この本では、一般的な多数決のイメージを批判し、多数決がどういう理念で生まれたのかを教えてくれます。なお、ケルゼンは、同書で民主主義の本質についても書いています。「民主主義」というと堅苦しいですが、我々も含めた「民衆」を中心に物事を進めることは政治に限らず日常では腐るほどあります。そういう意味で非常に身近な話題です。

多数決についての誤解

 多数決を「多数派の立場であれば何をやってもOK」と理解している人がかなり多いようです。しかし、「多数派なのでやりたいようにやらせてもらうよ」という前提は間違っています。それは民主的なやり方とはいえないとケルゼンは考えています。その理由は、〈逆流の存在可能性〉(異なる意見を持つ人が存在できる余地)が欠けているからだといえます。
 このような強硬的態度は民主主義的というより、むしろ専制支配的な考え方に近いのです。
 専制支配といえば、「ルイ14世やナポレオンなど昔の時代にあったもの」という認識の方がいるかもしれません。しかし、気をつけなければ、民主主義の世界においてもそのような専制的支配が常態化する可能性があります。
 それゆえ、ケルゼンは〈民主主義の前提する社会的均衡状態は、心理学的現実において、実際に「お互い折り合っていく」態度〉を持つことが必要だと述べます。この折り合うというのが多数決の原理を採用する上でなぜ必要なのでしょうか。

多数決の原理

 まずは、ケルゼンの多数決原理への考え方を見ます。ケルゼンの考える多数決の原理は、「この意見は多くの人に支持されているから正しい。だからいうことを聞け」という論法が明確に誤りであると述べています。
 なぜなら、多数決の原理は多数派のほうにではなく、「少数者側の保護」にこそ存在するからです。これは一般的な理解とは異なります。少数派の尊重こそが多数決の原理だと繰り返し述べています。
 なぜ、ケルゼンはそう考えるのでしょうか。その理由を次のように指摘します。

多数決原理は、(中略)原理が経験上少数者保護と親和的であることにすでに示されている。なぜなら、多数派ということは概念上少数派の存在を前提としており、それゆえ多数者の権利は少数者の存在権を前提としているから

 つまり、「多数」から「少数」を意識するのであり、その無意識の反応が多数決の原理が生きている証拠だと述べているのです。
 しかし、ケルゼンは少数派の意見を優先するという意味で多数決の原理を見いだしているのではありません。なぜなら、彼の主張は「多数派は少数派の意見を採用しろ」というものではなく、多数派と少数派による「妥協」を求めているからです。理由として〈議会制手続きというものは、主張と反主張、議論と反論の弁証法的・対論的技術から成り立っており、それによって妥協をもたらすことを目標としているから〉だと述べています。
 つまり、賛成派と反対派が意見をぶつけることで、思いもつかないようなより多くの人々が満足する結論が生み出せるのです。
 たとえば、「移民を受け入れるべきかどうか」というトピックがあったとして、それぞれ賛成と反対に分かれるとします。この際、賛成が7割いたとしたらどうなるか。賛成多数だからといって、移民を全面的に解禁することになるのでしょうか。ケルゼンの多数決の原理に従えば、おそらくそうなりません。
 なぜなら、賛成する側でも反対派の意見を聞いて「全面的に移民を解禁すること」はまずいなと考える人が出てきます。一方で、反対派でも「期限を厳格に決めるのであれば一部賛成」という意見が出ることが予想されます。
 まとめると、ケルゼンは多数決の原理として少数派の尊重を指摘しました。理由として、少数派の意見を採用するのではなく、討論による妥協こそが民主的なものの本質だという信念から来ています。
 多数派も少数派も議論を通して妥協をすることで、より多くの人が納得できる結論を導き出すことを目指せということです。

多数決をする際に気をつけること

 ケルゼンはあくまで政治的意味で多数決を語っています。それでも、日常生活で同様の決議方式を採用する現代人にとっても、彼の意見から学べるところが多いと思います。
 ケルゼンの話からすると、「妥協」が悪というわけではないのです。「妥協」が悪にしか思えない場合、ケルゼンの意見を誤解している可能性があります。
〈イデオロギー上は、すなわち民主的自由思想の体系における議会手続きの意味は、被治者の意志と最大限一致する団体意志を形成すること〉であって、〈「多数者が少数者をも代表する」「多数者の意志が全体の意志である」という擬制を受け〉るという解釈ではいけないのです。妥協の中でより多くの人が納得できるものを生み出すのが民主的なやり方なのです。
 なお、妥協を生み出す上で忘れてはいけないことがあります。それは、議論すること自体に価値を見いだすことです。
 より多くの人が納得するためには、より多くの人と十分な議論をすることが必要です。このプロセスを省略してはなりません。当事者だけでなく、外部の意見を聞くことも大切です。より多くの視点から検討することが、平和的かつ民主的結論につながるのです。

この激しい対立を、(中略)平和的・漸進的に調整することのできる形式があり得るとすれば、それは議会制民主主義という形式である。そのイデオロギーは、社会的現実においては到達できない自由であるが、その現実は平和である。

 現代では、「早く結論を出すことがいいことだ」という風潮があります。しかし、そのようなスピードは時には必要かもしれませんが、あくまで例外です。より多くの人に納得してもらうために、議論の時間を省いてはいけないのです。


かつての私は、「バカは選挙に行かないほうがいい。バカが選挙に行くから、ろくでもない政治になるんだ」とある著者に言われ、「確かにそうだな」と得心したこともあって、あえて選挙に行きませんでした(床屋政談くらいしかできないバカと自覚しているので)。
その考え自体は今も変わっていませんが、どう見ても政治家になってはいけないような人が当選してしまう様子を何度も見て、あえて当選は無理なもののマトモそうな人に死票を投じるという、ささやかな抵抗をするようになりました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

(編集部 いしぐろ)



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