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俺の名はマイナス:2

旅前の、バイトの辞め方は失敗だった。彼女に振られ、友達も失った。

でも今となっては、別に悲しくもないし、遠くに感じている。すべては以前の自分に未練を残さないで旅するように、全ては仕組まれていたようにも感じている。もし有留子と付き合ったままだったら、旅先での行きずりセックスにだって罪悪感を覚えたかもしれない。基本的に、僕は真面目だ。

D国について、アルバイト先の常連が話していた。大きな地震が起きた日の、三日前。そしてDへ行くことを決めたのは、地震があってから三日後だった。結局色々あって準備して、出発したのは一か月後だったけど。

東京の西側に位置する大学の駅前、鮮魚をメインとする居酒屋で僕は週三日、午後6時半から11時半までバイトしていた。入学以来クラスで数人の顔見知りは出来ても、サークルに加入しない僕に親しい友達はいない。でもバイト先で、友達と彼女が出来た。同じ学科に親しい友人のいない僕は、学校をまったく面白いと思えなかったが、それでも、俯きがちに窓のそばに座る、僕よりも孤独そうな人々よりはマシだと大学生活に耐えてはいた。僕は少なくとも彼らと違って、別学科の友達の健太郎や一回上の有留子と待ち合わせたり、学食で午後の授業を忘れてダラダラ過ごしたり、締切寸前のレポートを書いたり、が出来ていた。少なくとも、楽しいフリくらいは出来た。でも、彼らのようなマイノリティは、いつでも苦痛の沈黙を背中に浮かべている。その沈黙はまるで怒りにも見えるので、まわりの人間は無意識に不快感を覚え、さらに彼らを避けたくなる。

 「特に理由はないけど、なんか嫌な感じがするんだ」

僕は彼らをいつも見ていた。正面からではなく、気付かれないように、そっと横目で。もちろん、同族嫌悪として、反面教師として。あんなふうに独りきりになれる強さは、僕にはなかった。彼らの存在は僕を戦略的にさせた。感じよく振舞い、詰まらないことで笑い、威圧感を与えないように眼を見て微笑んでみせる。本当は何のやる気もないけど、できるだけ、みんなの側にいるようにした。独りでいるなんて目立ち過ぎる。注目を浴びれば、自分が空っぽなことがすぐバレる。それは、すごくマズい。

仕送りは貰っているし、遊ぶ金も趣味もないから、別に金が必要なわけじゃなかった。しいて言えばバイトが趣味みたいだ。趣味がないのは、自分が何を好きなのかよく分からないからだ。ゲームやったりマンガも一通り読んだけど、別にそれほど深入りしない。音楽だって別に好きじゃない。一応尋ねられて困らないように、マニアックすぎない程度の曲を携帯で鳴らしたりもする。

本当は、音楽が好きなはずだった。父親が日曜日の朝に聴いていた、モーツァルトのレクイエムやバッハのマタイ受難曲が好きだった。習っていたピアノの鍵盤を押すと部屋に響きわたる、音の波も好きだった、こともあるが。

そんなこと恥ずかしくて、絶対人になんて言えない。

バイト先にも、独りで目立つ人間が二人いた。いわば、「ぼっち」というやつ。一人は有留子、もう独りは加藤という男。両方とも僕や健太郎と同じ大学に通う学生で、有留子は二年生、加藤は僕らと同じ新入生だ。でもぼっちの二人は、それぞれタイプが違っていた。有留子は単独行動を基本とするけど愛想がよく、誰とでも気さくに話す。地元に親友がいるらしい。東京出身なので、学校外の友達の方が多いらしい。彼女はグループという限定に属さないだけで、ゆるやかなネットワークに繋がれた、沢山の友達に囲まれている。彼女はいつだって自分の好きなことばかりして、本当はそれほど顔が整っているわけでもないのに、なんか魅力的に感じてしまう。健太郎は、有留子がある女優に似ていると盛んに言い張っていた。放映中のドラマに出ている人気女優と、そのそっくりさんで売っている、あるAV女優にも。

有留子の周りには、いつもリラックスした雰囲気が流れていて、なんかこっちも楽しくなってくる。笑いかけられると、もうなんていうか、僕は抗えなかった。そして僕はネット上で有留子似だというAV女優が出演したタイトルを探し、数本まとめてダウンロードした。僕は彼女に憧れていた。

僕の知らない話をして、自分の好きな服を着て、好きな音楽を聴き、好きな人とだけ付き合い、そして摩擦を起こさない。しかも、絶妙に干渉してこない。距離感の取り方が上手い。すごくセンスが良くて、悔しいけどもかっこいい。僕のように姑息な方法で戦略を練るのでなく、自然にみえる。ムカつくだろ、でも女だから許す。成績もけっこう優秀らしいし、話し方から、なんか頭が良い感じが伝わってくる。もしかして、彼女と仲良くなれば自分も、そういう人たちの気分を味わうことが出来るのかもしれない、と楽観的にも僕は思っていた。

もう一人のぼっち、加藤は有留子と正反対だった。まず、加藤は暗い。必ず教室に一人か二人いる、あの、マイノリティだ。じっと苦痛に耐えるように、居たたまれなさを醸し出しながら下を向き、誰とも眼を合わさない。健太郎は加藤のことを嫌ってた。僕は周囲に悪く思われたくないので、健太郎に煽られた流動的な一派のように振舞い、表立って彼を目の敵にすることはない。もちろん、もうひとりのぼっちである有留子だけは加藤に対して普通に接していた。そのことを健太郎は忌々しく思っていたようだが、それは嫉妬であることが明らかで、僕のなかでは有留子株がますます上昇中だった。

AVも目を閉じれば脳裏に浮かぶほど観たし、高校の時に女の先輩と経験済なので童貞でもないわけだし、そろそろどうにかしなければと思いはじめていた矢先、有留子もこちらに興味を持っていることが分かった。健太郎は悔しかったと思うが、僕らの間には奇妙な主従関係に似たものが存在していて、不戦勝で僕のほうが若干上に立っていた。それは単に、外見の差によるものだった。僕はいわゆる、世間ではイケメンとカウントされる部類に属す。そして世間では、イケメンはとりあえずの正義とされる。おかげで、この内容のなさにも関わらず、愛想さえ良くすれば人の輪に入ることができたし、意見も持たずに生きてこれた。綺麗な顔をしているねと人に言われても、別に自信が付くわけではなかったが、捩じれた自己愛は確実に巣食っていた。僕に中身が無いことに気付いた人は、静かに去っていく。そうすると傷つくけど、実際僕は顔が良いだけで退屈なんだから、それは仕方ない。自分は本当には、人の輪に入れない。輪に入っているように見せかけてるだけで、本当は独りぼっちだ。だから、独りで俯いて学食でうどんを食べる彼らマイノリティから、目を離すことができない。あれは大嫌いな僕自身の姿でもあるから。

それでも僕には希望があった。有留子のような理想的な女の子と一緒にいれば、僕だって本当に特別な人間だと思われるかも、自然にそうなっちゃうかもしれない。もちろん同時に怖さも感じていた。いずれ彼女は僕に中身が無いことを知り、去っていく。もっと彼女に相応しい男に出会って、僕を忘れる。僕は、確実にいつか彼女に忘れ去られる。いつか来る恐怖の時に、僕は慣れていなければいけない。だから、僕はいつもどこか、怯えている。

僕らはデートするようになった。他愛のないデートだ。彼女の好きな美術館に行き、彼女の観たい映画のチケットを買い、僕の家でセックスする。自分を出来るだけ面白い男に見せるよう、必死に適当なことを話し続けた。でも彼女は僕がペラペラと話し出すと、困ったように笑いながらキスをして口を閉じさせた。「しゃべんないで」彼女が言うには、僕のなかで一番好きなのは顔、だそうだ。きみって、綺麗な顔をしてるから。他に好きなところはないの?とふざけた振りをして聞いてみても、彼女はただ、一言。

「だってきみのこと、まだ何も知らないもの」

そんな詰まらない理由なのか、と僕は少しがっかりした。でも有留子はやっぱり変わっていて、セックスにも積極的だったし、すごく気持ち良かった。僕は二人を綺麗な恋人たちだと自慢に思い、見せつけたくて大学では出来るだけ彼女と一緒にいようとした。学外の彼女の友人達は、あまり僕には合わなかった。彼らは少し強烈すぎた、有留子が僕を置いて他の人たちと楽しそうに喋るのを見るのも、僕はぜんぜん、好きじゃなかった。

そんな日々のなか、あの客が店にやってきた。僕の運命を変えた男。

ごく平均的なよくある居酒屋という日常に、その客は異形として映った。濃く茂った太い眉の下で、鋭い眼光を放つ両目が、妙に強く印象に残る。よく陽に焼け、長髪は頭上で纏められ、丸く無造作なおだんごに括ってある。それほど大声を出していないのに、従業員を呼ぶ声が異様に通る。服装も変わってた。白地に黒の小花模様が散らばる巻きパンツ、藍色の生地に原色でアラベスク模様が染め抜かれた、白い貝のボタン付きシャツ。アジアかどこかの民族衣装だろうか。それ以来男は毎晩店を訪れ、僕ら従業員たちと言葉を交わすようになった。男は意外にも話好きで愛想が良かった。僕も給仕のついでに彼と話すようになり、彼のことを色々と知るようになった。

彼は世界中を旅して回っている。いわゆるバックパッカーと呼ばれる人種で、日本で滞在資金を貯め、それを握りしめて海外へ飛び出していた。帰国子女であるにも関わらず、海外旅行に興味を持たない僕でさえ、それは何となく素晴らしく、とても自由なことのように思えた。大学の横手にある住宅地を抜け、開発予定地の森の入口付近にあるシェアハウスに滞在中。放浪資金稼ぐため、肉体労働を終え、食事と一瓶のビールを楽しむ人。名前はヤマモト、……さん、ヤマモトさん。

有留子がヤマモトさんに、あからさまな興味を示したので僕は少し不快だった。でも彼は不思議な人で、彼と楽しく話せることは、周囲に対して自慢になりえる感じなのだ、なぜか。どこか格上って感じがして、直接的な嫉妬をぶつけるのは難しかった。あるとき健太郎が帰り道、バカ話と加藤の悪口の合間にふと、「ヤマモトさん、あの人はスゲーよ」と呟いた。賭けてもいいが健太郎にヤマモトさんの本当の凄さなど、分かるわけない。でも彼のカリスマ性の「スゲー」ところは、バカな健太郎も理解できるかたちで「スゲー」ところなのだ。そして、有留子のように彼もまた、加藤を決して邪険には扱わなかった。奴は大した返答もできず顔を赤くして口ごもっていたが、今ではヤマモトさんが来店すると眼を輝かせ、普段の倍は動きが良くなって、誰よりも早くビールを運んでいく。

僕がヤマモトさんに対して捩じれた愛情を抱き、かつ加藤を犠牲にして憂さを晴らそうと姑息にも計算したのは、すべては有留子のためだった。なぜなら有留子はもしかして、ヤマモトさんに惚れたかもしない、と僕は焦っていた。あの人って僕なんかと違って、中身があるんだろうし、ああいう人を魅力的っていうんだろうと思う、一般的に。とはいえ、本当のヤマモトさんのことなんて僕には知りようもなかった。全ては僕の妄想のなか、急激なスピードで彼は光り輝けるカリスマの星となった。しかも最悪なことに、僕のなかでは有留子も彼と同じ人種なので、ふとした瞬間にホールで皿を運ぶ有留子とテーブルのヤマモトさんの間に交わされる眼差しと微笑みなんかを見てしまうと、ふたりはもう五千回は僕の妄想のなか裸で絡み合いセックスしまくっている。絶対にそうだ間違いない。僕だって彼女の引力に巻き込まれたから分かる。有留子のフェロモンに抗える男なんて、いない。僕は嫉妬に狂った。

ヤマモトさんが店に来て以来、有留子は、急速に僕への興味を失ったような気がしていた。実際死にそうな気分だった。でも僕は有留子にもヤマモトさんにも、嫌われたくなかった。

僕はついに耐えられなくなり、無関心であったはずの加藤へ悪意の八つ当たりをはじめた。仕方ない、と僕は自分に言い訳をしてみたが、もとより相手は加藤なので全く罪悪感がなかった。健太郎は、面白くなさそうな僕をみて喜んでいるような、あるいは、手を汚さずに過ごしてきた僕が憎々しげに加藤を罵るのを見て、自分と同じ醜さを発見し、喜んでいるようにも見えた。とはいえ、僕としてはもっと巧妙な手口で加藤を叩きのめしたくて仕方なかった。不運にも加藤が犠牲に選ばれたのはタイミングというか、別に何の理由もないのだ。彼は、ただその場所にいた。それだけだった。

僕がみんなの前でクールでいるために、嫉妬憎悪悪意その他の醜悪な僕の真実を、特に有留子とヤマモトさんには絶対に見られずに済みますように。その祈りを成就するために使った供物が、加藤。許してもらいたくて言うわけじゃないけど、本当に僕は死にそうだったんだ。でも、どうしてなのか、僕が加藤とふたりきりのロッカールームで、悪し様に彼をなじりそしりあいつのバッグの中身をゴミ箱にぶちまけ、アルバイトの女子高生と絶対零度の眼差しで彼に視線を据えたままヒソヒソとえげつない言葉を耳打ちするたび、僕の感覚では、その眼差しや囁きはヤマモトさんと有留子から僕へ向けられる軽蔑の光なのだと感じられ、もう辛くて辛くて意味が分からなくて、マジで発狂しそうだった。というか狂っていたと思う。

なので、僕から加藤への嫌がらせは狂気的な速度で加速した。

だいいち有留子のやりかたは屈辱的じゃないか?まだ付き合って二ヶ月なのに来週の木曜日は二ヶ月記念日なのに、もう別の男に目移りかよ。もちろんすべては僕の妄想というか主観なのだが、僕にとってはその妄想こそ限りないリアルだった。脳内でテープ・ループとなってまわり続ける有留子とヤマモトさん、そしてたまに加藤も含めての飽くなき乱交で彼女はまるで、何度も繰り返し観たAV女優の痴態と重なって、貪欲なセックス・マシーンとして僕とのセックスより多分もっと素晴らしいものを得ている、本気のオーガズムってやつを。そして僕自身がさらに最悪なのは、それに奇妙な性的興奮を覚え、狂いそうになりながらズリネタにしてるとこだ。

相変わらず、浮気の確証はなかった。バイト帰りにお茶しているとき、平気でテーブルの上にロックもかけずに携帯を起きっぱなしにする有留子。ヤマモトさんとのメールやLINEは見つからなかったが、加藤とはたまに、バイトのグループチャット以外で、事務事項を伝えるような他愛のない挨拶程度のLINEを交わしているようだった。それより下の名前だけを登録した男友達とか、別にアヤシいような会話はないようだけど、それも暗号かもしれないし、とにかく出来れば、僕以外の男と連絡するのなんか辞めて欲しかった。でも言ったらダサいから言わないけど、もちろん彼女の携帯は見まくっていた。とにかく僕は有留子が浮気をしているという妄想から抜け出せなくなり、僕の有留子に対する気持ちは、ラブとヘイトが倒錯的にねじれグチャグチャに混ざり合い、とにかく醜いと表現するしか言葉はないくらいな感じになって、そう。相変わらず僕は死にそうな気分だった。大好きな女の子と付き合っているのに、僕は全く幸せじゃなかった。

大好きだけど、いっそのことヤマモトさんに店に来て欲しくなかった。でも相変わらず仕事上がりに彼は店を訪れ、ホッケ定食とビール中瓶を注文する。僕以外、みんな本当に幸せそうな、この世界。

僕は加藤がヤマモトさんと話そうとすると、いつも邪魔をするために会話に割り込んだ。有留子以外の店員達はみな、僕がそうするとニヤニヤ加藤を笑った。そして小声で、いかに加藤が話すに価しない人物かを小声で囁きあう。まるで僕らはオーケストラのメンバーかバレエダンサーかというほどに、加藤の神経を圧迫するための不協和音を、完璧なユニゾンで奏でた。組織的な、相互的なムーブメントでもって。しばらくするとより大胆になった僕らは、加藤が自分と同じ人間だということすら忘れはじめた。悪意を、偶然程度に抑えておくような絶妙なバランスを忘れはじめていた。僕だけじゃない、店にいたバイトの子たちや健太郎や僕はみな、有留子とヤマモトさんを自分たちに繋ぎ止めたいと願ってやまなかったのだ。あー二人の世界に行っちゃわないでよ、行くなら加藤はどうなるか知らないよ。そんな風に理由を付けて、僕らは不安で仕方がなく、だから僕らは実際、加藤を誰よりも必要としていた。ふたりへの愛と嫉妬が沸き上がるたび、苦しい僕は生け贄の血を必要とする。僕らのネガティブなエナジーをぶつけられた加藤の顔から、白く青く血の気が失なわれていくほど、僕らはもう少しだけ生き延びることができた。僕らはまったく気色の悪い食人鬼へと成り下がっていて、自分たちがどれほど醜く映るであろうかなんて、考えもしなかった。

そして有留子に振られたのは、地震があった日の三日後だった。

あの日、僕は大学のそばの自分の部屋に独りでいて、有留子は実家で家族と一緒だった。もう彼女の気持ちが離れたのは分かっていた。こんなに彼女の気持ちが分かるのに、どうして僕を主体として恋愛ゲームが進まないのか本気でわからなかった。あの日も朝からティッシュが散乱したベッドの上、ヤマモトさんに抱かれる有留子の姿を妄想し、嫌悪しながら勃起して強い力で自慰していた。その頃になると生活なんか相当荒みはじめていて、なんか通販で買ったギリギリなドラッグやら器具やらを使って、けっこうハードなオナニーをくり返していた。束の間の快楽の後に襲ってくる自己嫌悪に吐き気を感じ続け、独りではいられなくなって、バイトの女子高生をセフレにした。ヤマモトさんと話そうとする加藤を邪魔するたび、僕に向けられる有留子の冷たい眼差しが突き刺さる。自分の部屋にいても、一度も心が休まったことがない。僕はまた、逃げたい気持ちからペニスを必死にしごいた。

下半身丸出しだったので二度目の揺れの時、急いでボクサーショーツとジーンズを履き、幸いなことに僕の部屋は棚から物が落ちた程度でそれほどの被害もなく、でもかなりの揺れだったから、外へと続くドアを半開きにして、電柱の下で不安そうに会話する主婦達の声をききながら僕は次の動きをどうすべきかと考えていた。数度目かの余震を感じたあと、大学の図書館にいた健太郎からバイト先を心配するメールが来た。もしかして開店準備中の社員がいるかもしれないと思い、僕は自転車に乗って店に向かった。今日のシフトが誰だったか、全然思い出せない。空が変な色、鉛色でドロドロしてて暗い。まだ揺れていたし、独りで部屋にいるのは嫌だった。店にもテレビがあるし、みんなで一緒にいるって方が正しい気がした。

僕が店に入っていくと、社員の有坂さんがいた。

 「サトル、大丈夫だったか?」

ホールの床には、割れた花瓶の破片や割り箸がパラパラと散乱していた。それほど被害がないとはいえ、大きく動いたテーブルや壁から落ちてガラスの割れた額縁などを見ると、普段そこで作業しているからこそ、ぼんやりとはいえ相当ヤバいなと思った。調理場から泣き声とそれを宥める声がした。こんな酷い有様なのに、有坂さんは僕をまず気遣ってくれた。僕はあの新卒の社員を、はじめて頼もしく感じた。すげえ良い人。

調理場では、仕込み担当の主婦バイトさんたちが5人、部屋の隅に固まって動揺していた。あちこちに散らばった食材や調理器具、割れた皿などを拾うでもなく、ちょっとヒステリックな感じになっていた。彼女たちに優しく声をかけホールへ誘導する有坂さんを手伝い、テレビの前に集まった僕らは、画面を見て息をのんだ。

ホールの左側に設置されたカウンター内のテレビには、嘘みたいな情景が映し出されていた

スローモーションで飲まれていく大地。そんなエフェクトをかけるなんて、劇的すぎてさすがにマズいだろうと思った、不謹慎だろ。でも画面の右上にはライブ中継のサインがあり、それはスローモーションじゃないことを示していた。あまりにも広大な範囲を飲み込んでいく水を撮影するために、カメラを積んだヘリコプターが相当上空から引きで撮ってる。水が、あらゆるものを飲み込んでいく。僕らは恐怖に引きつって思わずなんか変なひゅ、とかふぁ、とかいった声をあげ、畑や家や車や橋や工場地その他、誰かが現実に所有する土地、生活がまるごと残った家々、生きた本物の人間が飲み込まれていくのを見た。指先を動かしても、両手で口を覆っても、全身に鳥肌を立てても、僕らはそれを止められなかった。無力だった。

しばらく無言でテレビを観ていると、健太郎から着信があった。

図書館から出て寮内の部屋に戻った健太郎もまた、テレビを見て、はじめて現実の惨状に言葉を失っていた。しばらく僕らは電話越しに無言でいたあと、健太郎が有留子は大丈夫なのか?と聞いた。しまった連絡してないと一瞬焦ったが、実家にいるのだから大丈夫だろうと想い、問題なかったよと適当に健太郎に伝えた。僕はいまだに、健太郎の前で自分の嫉妬や苦悩について話したことがなかった。そんなことをすれば、奴は勝ち誇った顔でアドバイスでも始めることだろう。健太郎のドヤ顔、想像するだけでキツすぎる。こんな時でも、下らない僕は下らないことを考え続けていた。

僕の周囲の人々、社員さんや主婦たちの顔面はみるみるうちに青ざめていくというのに、僕ときたら、一体これはどういうことなのか、まったく分かっていないのだ。あの時間、あらゆるものが恐ろしいスピードで消えていったこと、まったく予期せぬタイミングであらゆるものを失った人々が存在するというのに、この日本で。それなのに、まだ僕は自分のことだけを考え、自分だけを憐れみ、そして自信のなさから発露した自己破滅願望をこの時期になってはじめて自覚していた。あ、これでやっと日々が終わってくれる。正直、安堵すら感じていた。僕はようやく、醜さから逃げることができる。

その後のことを結論から言えば、三日後に有留子から携帯に連絡があり、まず彼女は僕を気遣ってから本題に移った。簡単にいえば別れ話だった。こちらを責めるような態度は一切なく、でも地震があって今まで一言も彼女に声をかけなかったことを、事実として指摘された。僕のクズさは充分自覚していたので、僕的には惨めだったし弁解したかった。でもいつものように、僕は自分のことばかり話して上手く謝ることが出来ず、ようやく出てきた言葉はねえヤマモトさんと付き合うの?という震える声で、それを聞いた有留子は呆れたように少し笑った。僕は全てを誤魔化して、今すぐ狂ってしまいたかった。

「わたし今、一人で考えたいの。何を言っても信じてもらえないのが不思議なんだけど、きみは、わたしが浮気をするような人間だって、本気で思ってるの?」

有留子はズルい。

最後まで僕は彼女に勝てなかった。嫉妬に狂った自分が、本当に不様で惨め過ぎる。彼女はたしかに、何も悪くないのかもしれない、でも悪い悪い超悪い。僕をみじめさに置き去りにすることは、絶対的に悪いことなんだ。

屈辱とパニックに襲われた僕は突然、地震の三日前にヤマモトさんが加藤に言ったことを思い出し、他人の運命を横取りすることに決めた。あの日の加藤は、いつものようにニヤニヤしながらヤマモトさんをエイジさん、とかいっていつの間にか下の名前で呼ぶようになっており、ホッケ定食と瓶ビールを、愛するヤマモトさんのためにスキップでもしそうな勢いで運んでいた。最近、加藤へあからさまな悪意を向けるとヤマモトさんが僕を悲しそうな眼で見る。あの視線ったらかなりの苦痛なので、最近の僕は二人の会話をそれほど邪魔しなくなっていた。でも、彼らの背中を通り過ぎるとき、いつでも僕は彼らの会話を盗み聞いた。

 「君は、D国に行きなさい」

唐突に耳に飛び込んできたのは、そんな言葉だった。ヤマモトさんの声。オーダーを聞かなければいけなかった。でも僕は迷わず振り返る。見つめ合う彼らの横顔が見えた。その天啓に、いつも暗く淀んでいるべき加藤の顔は明るく光り輝き、喜びが満ちあふれていた。ヤマモトさんの眼差しはいつにも増して慈愛に輝かしく、彼もまた、加藤の喜びに共鳴してニルヴァーナの境地を味わっていた。健太郎に「加藤!ビールお注ぎしろや!」と怒鳴られるまで、加藤の意識は聖なる至福のなかで漂ったまま空中浮遊し、さっき二人の間に繋がれたアラベスク状の編み目模様として感知できる不思議なあいつ、不可知のエナジー・コードでふたりは交歓していた。嫉妬で死にそうだ。

三卓のオーダー、シーザーサラダと蛸わさ、手羽先5本と焼きうどん、グレープサワーと生ビール。魚頼めよバカ、と思いつつメモをとりながら、僕の心は嫉妬に燃え狂っていた。僕はバイトの時間中、頭の中でD国、D、DDDDと繰り返した。忘れるわけにはいかなかった。バイトを上がるとすぐに、携帯でD国を検索してウィキのページをブックマークした。

僕は絶対に、D国に行く必要があると思った。できれば、有留子と一緒に。

有留子は積極的だから、共に旅をするなら最高の相手だろう。僕はまあまあ英語ができるし、変わった提案をする僕を彼女は見直すんじゃないかな。それで気持ちが再燃するかもしれず、加えてヤマモトさんはそんなマイナーな国に自分で辿り着いた僕の、トラベラーとしての才能の未知数に感激するかも、しれず。そして自分に天啓として与えられたものを僕に奪われ、再び薄暗い角へと戻っていく理由を、ついに加藤に与えてやることができるのかも、しれず。

有留子からの別れ話の会話の中で、何もかもが無駄なことは分かったけど僕は最後の悪あがきをし、突然思いついたけど一緒にD国に行こう、と彼女に言った。僕の言葉を聞いた有留子は少し沈黙し、それから、はあ、と溜息を付いてから、子供に言い聞かせるような感じで静かに話しだした。

 「……こんな時に、何?」

彼女を本気で怒らせたことに、僕はようやく気づいた。

「サトル、わたしね、本当に君のことは好きだったけど、これ以上がっかりさせないで。憎み合ったりするのなんかイヤだから、お互いに、前向きに別れたかった。わたしは、きみと付き合うことで学ぶことが沢山あったよ。でも、もうケミストリーは終わってしまったと思う。きみも感じてるでしょ? ……もうお別れして、感謝して、先に進みたいんだ。最悪の事態になる前に、お互い自制して、理性的に別れたいと思って、電話したんだー。

 でも、それも、難しいみたいね。

さっきの、D国に行くとかいう話だけど。今、日本で何が起きてるか、分かってる? わたし、こんなときに彼氏と旅行なんて無理。あとこれって、わたしのことが心配で、こんな風に先の分からない日本にいるより海外に行こうよ、って話じゃないよね? 知ってるから。キミ、自分にしか興味がないよね。全然。地震とか津波とか他人事でいれて、自分のことだけ考えられる。原発だって……まあ、言っても仕方がないね。ある意味、スゴイわ。あ、旅行だけど、わたしの方が旅慣れてるから向こうでキミは楽できるよね。わたしを誘った理由って、それでしょ? あとは、彼女とバックパッキングなんてカッコいいかもって思った? D国って、ヤマモトさんが話してたの聞いたの? あの人、Dにいたみたいだから。それで知ったんでしょ? あの国のこと。

ああ、もうダメ。それにね、人に優しくない人はダメ、やっぱり。何とか正当化しようと頑張ったけど、わたしってバカみたい。だって、全然優しくないもの。わたしのことは、まあ良いよ。自分も悪いし。でもあなたの、加藤君に対する態度。あれ、酷すぎる。あんな幼稚な悪意をぶつける人と付き合うとかって、やっぱり無理。友達にも戻りたくない。

ごめん、もう連絡しないで」

その日のうち、有留子はバイトを辞めていた。有能だった彼女を失い、それが僕という彼氏とのトラブルによると推察した社員たちは、迷惑そうな口調で事情を聞き出そうとした。

僕は、ただ、呆然としていた。

健太郎はすぐに大学の別の友達が加入しているサークルが主催するボランティア・グループに飛び込み、被害にあった人々へ資源を送り届けるために被災地へ行った。帰ってきた彼が話す現地の状況は、全然頭に入ってこなかった。僕が一方的に有留子と別れたこと、D国へ行くことを伝えると、健太郎はこれまで見たことのないような真剣な表情になり、ボランティアに参加する気はないかと僕に尋ねた。僕が答えられずにいると、逃げたいというなら自分も止めない。でも、女に振られたくらいで遠くへ行こうとするなら、自分と共にボランティアに参加するべきだ、きっと僕にとって良いことになるから、と強く言った。

まったく、酷い気分だった。
今さら加藤のことなど気にしているのは、世界で僕一人になっていた。まだ沢山の余震を経験して、全てにやる気を失った僕は店が再開するまえに最悪の方法でバイトを辞めた。言い訳ばかりを並べた社員へのLINE一つ、あとは電話もLINEも一切無視して自分の部屋に引きこもった。部屋のなかで僕はネットを徘徊し、ひたすらD国についての情報を集めた。 

そして僕は、dogstarのブログを発見した。あのとき、まるで世界には僕とdogstar、そしてまだ見ぬD国しか存在しないのだと、ありがたくも僕は現実逃避させてもらった。彼の4年分の詳細な記録をしつこく何度も暗記するほど読んで、最後に、去年の日付で止まった最新の更新をまた何度も読み直し涙したあと、飛行機の格安チケットを検索するページから一番安い往路のチケットを予約した。

大きな地震が起きた日から、一ヶ月が経とうとしていた。

(つづく)

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