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ジャッジを抜けた真実の世界と"わたし"

世界は沢山のジャッジで飛び交う


誰が良くて
誰が悪くて


私はいいけど
あなたはダメで

あなたはいいけど
私はダメで


そんなジャッジのし合いの世の中で、
ジャッジから逃れたくて
自由になりたくて
羽ばたきたくて
私は私のままでいたくて



エゴは愛されたくて
思考は判断のままに生きたくて
賛否を味方につけたくて
ベースは愛され賞賛されたくて
否定は許さない…
あるいは受け入れなくて…



世界はそんなふうに
ただ目の前を通り過ぎる



本当はそれが真実なのだけれど、
やっぱり現象に上下するのが
このボディというものだ。



このボディこそが"私だ"と認識した時、
おのずと世界に分離が生まれる。



分離は正否へ上下へ
流転するものが"私"だと
"世界"なのだと
認識しているのがボディだ



では、
この正否がない"わたし"とは
いったい誰だと言うのだろう?


この正否を認識している
"わたし"は


誰?




そんなふうに問いかけると
恐怖が生まれるだろうか?


もしくは
「あぁ…これか…」と
静寂が訪れるだろうか?



もしくは…



"時間"という概念は
この探求をとても"美味しく"してくれる


"味付け"と"そのタイミング"は
あなたという"神"がしている



さぁて、
そろそろこの味付けに気づこう





ご覧くださり、
ありがとうございました。



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