Lira

一瞥の後、夢から目醒めて真実をゆるく生きる。 〜悟りとワンネス〜

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一瞥の後、夢から目醒めて真実をゆるく生きる。 〜悟りとワンネス〜

マガジン

  • "存在すること"のエッセイ

    "ただ在る"ことを、自由気ままに書き綴っています

  • 悟り・ワンネス

    "ただ在ること"の真実を書き綴っています

最近の記事

"これ"の他には"なにもない"。 あるのは、 "すべて"であって すべては"愛"だ。 この夜には、 "愛"しかない。

    • ジャッジを抜けた真実の世界と"わたし"

      世界は沢山のジャッジで飛び交う 誰が良くて 誰が悪くて 私はいいけど あなたはダメで あなたはいいけど 私はダメで そんなジャッジのし合いの世の中で、 ジャッジから逃れたくて 自由になりたくて 羽ばたきたくて 私は私のままでいたくて エゴは愛されたくて 思考は判断のままに生きたくて 賛否を味方につけたくて ベースは愛され賞賛されたくて 否定は許さない… あるいは受け入れなくて… 世界はそんなふうに ただ目の前を通り過ぎる 本当はそれが真実なのだけれど、 やっぱり

      • 判断に縛られても…

        「いいか」「悪いか」 二元の世界には、 あらゆる"判断"がある。 「良いもの=正義」 「悪いもの=過ち」 そんな風にも捉えていて、 世界はあらゆる"正否"で満ちている。 素晴らしい人 悪い人 楽しかった出来事 辛かったトラウマ 正しい考え方 間違った価値観 などなど、 沢山の"二元的な判断"がある。 皆、それに踊らされ むしろ"踊りたい"と志願さえしている。 思考、 いわゆるボディの私というのは 人間社会で何十年も過ごすと それはそれは とても固くなったア

        • あるがままって…

          頭で考えたら 途端に"定義付け"してしまう、 "あるがまま" あるがままって、 あなたにとってなんだろう? あるがままは、 "現れるがままに" コントロールが介在していない その様が、 あるがまま。 だが少し待って欲しい。 思考がなくなることが、 "あるがままのあなた" ではあるが、

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        "これ"の他には"なにもない"。 あるのは、 "すべて"であって すべては"愛"だ。 この夜には、 "愛"しかない。

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        • "存在すること"のエッセイ
          3本
        • 悟り・ワンネス
          6本

        記事

          私たちが、どれほど何かを目指そうとしても、それは"夢の中"で、だけれど私たちは"ただ存在そのもの"だし、それは今ここではやはり"人"だ。 人であることに、誇りを持とう。 上げ下げがあるのが人間だから、それでいい。 それが、素晴らしい。

          私たちが、どれほど何かを目指そうとしても、それは"夢の中"で、だけれど私たちは"ただ存在そのもの"だし、それは今ここではやはり"人"だ。 人であることに、誇りを持とう。 上げ下げがあるのが人間だから、それでいい。 それが、素晴らしい。

          因果応報〜その真理〜

          例えば人は、 嘘をついたら 嘘をつかれることが返ってくる 誰かを罵ると 罵られることが返ってくる 優しさを与えれば 優しさが返ってくる 肯定や愛にも 同じことが言えると 人は因果応報をそう思い 誰かは"罪"に怯えて生き、 誰かは"喜び"を期待し、 誰かは何も"関心"すら持たないだろう。 誰かは言う。 「なんで私にこんなことが起きるんだ!」と その出来事に嘆くことがある。 だけど、真実はこうだ。 神様とやらは、 誰のことも罰してはいない。 ただあるがまま

          因果応報〜その真理〜

          "意図"は"わたし"、わたしは遊んでいる

          まわる まわる 世界は こうして廻っている 笑顔 喜び 涙 悲しみ 混沌 不安 世界は常に 時間の中で 時間そのものが 廻っている 世界は混沌か平和か 否、"判断したもの"が そういった"定義通りの世界"に見える そして、 世界は"意図の通りに" ただ"創造され続けている" 意図が"遊び"を選んだ その瞬間から 意図の通りに、 ただあなたはここに居る そして、それぞれの"意図"は より"遊びを深めて" ここに居る あなたはどんな遊びを 選択しているだろう

          "意図"は"わたし"、わたしは遊んでいる

          "恐れ"は"悪"か

          "恐れ"は"無くすべきもの"だろうか? "持ってはいけないもの"なのか? 恐れを克服するのは、美しい。 恐れを直視するのも、素晴らしい。 だけど、 「恐れを直視せよ」と言われたら? 人は怯えるのだ。 怖くて怖くて、 たまらなくなる。 それは自我が 「私は存在してはいけないんだ!」と 怯えてしまうから… そりゃあ怖くて 見たくもないはずだ。 ただ、 恐れを"真正面から見ること"が "できる"と 恐れも… 喜びだって、 "わたし"なのだと"わかって"いる た

          "恐れ"は"悪"か

          "存在"に制限はない

          本当は、私たちには "なんの制限"もない。 そもそも、制限なんてあり得ない。 制限を設けたのは、 あなたの"何"だろう? このストーリーで、 あなたは"何"を"知った"のだろう? "それ"は"絶対"なのだろうか? "正しい"の定義は? "誤り"の定義は? 例えこの世(ストーリー)で 踊っていても、 "自覚"であればいい。 思考が"ダメだと言っている" マインドが"悲しいと感じている" それらを"自覚"しよう。 本当は、 "自覚をする"のではなくて、 "

          "存在"に制限はない

          すべては"完璧"だ。 いくら思考が「ダメだ」と判断しても、 いくらマインドが罪悪感に苛まれても、 あるがままの世界は すでに"完璧"なもの。

          すべては"完璧"だ。 いくら思考が「ダメだ」と判断しても、 いくらマインドが罪悪感に苛まれても、 あるがままの世界は すでに"完璧"なもの。

          孤独と風

          "人"は孤独になることがある。 孤独とは、 マインドが「私は一人ぼっちだ」と 名付けたもので、 実は"その人"は何も孤独でない。 歩めば、おのずと "分かる"さ。 だって、その認識こそ "あなた"なのだから。 さぁ、風に乗って あなたこそが風なのだと 感じよう。

          孤独と風

          超えて 超えて 超えて… 1つだということの意味を、 その存在を、 "あなた"であることを "自覚"する。

          超えて 超えて 超えて… 1つだということの意味を、 その存在を、 "あなた"であることを "自覚"する。

          悟りを求める、その心

          「この世は幻想である」 ノンデュアリティでは よく言われている言葉で、 それが響く"自我"や 分からないと思考する"ボディ"がある。 この世はその通り、 "真我にとっては幻想"なのである。 では"自我"にとっては? "夢"? 否、自我は"リアリティ"だと 受け取るだろう。 リアルだからこそ、 この世で悩みが発生し それに打ち込むのだ。 だからこそ、 "悟りを求める" 自我は 「楽になりたい」と 「私"も"幸せになりたい」と "誰"と比べているのだろうね?

          悟りを求める、その心

          この世は儚い。 強く潔いもの 儚く脆いもの 沢山の"もの・事象"が溢れている。 どれに悪いも良いもなく、 ただただ、"美しく在る"。

          この世は儚い。 強く潔いもの 儚く脆いもの 沢山の"もの・事象"が溢れている。 どれに悪いも良いもなく、 ただただ、"美しく在る"。

          誰かが誰かに"呼応"する時代。 呼び声は高らかに鳴り響き、その声に伴って、さらに声は鳴り響く。 個から"一なるもの"へ。

          誰かが誰かに"呼応"する時代。 呼び声は高らかに鳴り響き、その声に伴って、さらに声は鳴り響く。 個から"一なるもの"へ。

          多元的であること

          この世はとても多元的である。 例えば"成功"。 成功だけをとっても、 十二分の"答え"があるのだ。 お金を多く稼ぐことが成功 望む生活をすることが成功 愛を感じることが成功 "全て"を兼ね備えていると思っていることが成功 など、 一人一人、それぞれの"成功の定義" そして"観念"がある。 それは人が人である限り、 「私こそが正しい!」 「私は間違っているのかもしれないけど… 」 そんな声が聴こえてくる。 それもそのはずだ。 だってそれは、 「"私は個"だ」

          多元的であること