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話が通じない男に、絶望した時に読む本_「さよなら、俺たち」清田隆之②

当記事単独でも読めますが、
これは「さよなら、俺たち」清田隆之についての2つ目の記事です。
① はこちら

1、こんなに気持ちいいの、おかしくない?

男性の著者が、自分に全く得にならない「フェミニズム」について考え、女性の権利奪回を望んでくれる本書。
特権の中で男性に許されてきた行為や無知・ワガママなどが、清田氏の明快な「言葉」という白日の元に次々と晒されていく快感を味わう反面、大きな疑問も首をもたげる。

清田氏はどうして、私たちをこんなに気持ち良くしてくれるの?

P59
(高校時代を振り返り)もっと俺を見てくれ、もっと俺を認めてくれという気持ちが渋滞していたのだと思う。(中略)ずいぶん自分に対するお見積もりが高いし、現実との落差も激しすぎて、思い出すだけで恥ずかしい。
P99
(小学生女子向けのモテ技術本について)そのグロテスクさを作り出しているのはこの本自体でなく、そういう価値観を生んでいる男性の幼稚さや無自覚さにあるはずだ。
P195
唐突に恥ずかしいことを告白するが、私が性的興奮を覚えるモチーフは「ファットな体型の40〜50代女性」だ。(中略)豊満な熟女に抱かれてみたいだなんて、「偉そうにジェンダー問題とか語ってるけどお前も女性に幻想を抱く典型的なマザコンか!」という幻聴が聞こえるようで認めるのが辛いばかりだが・・・

恥ずかしい自らの過去を掘り起こして陽の元に晒し、自らの属する男性というカテゴリーの弱点を批判し、挙げ句の果てに、かなりコメントしずらい性癖を自己分析までしてみせてくれる清田氏。
「さすがにそれは、女性側も悪いんじゃない?」と、こっちが突っ込みたくなってしまう事例でさえ、徹底的に自己(男性)批判のみに徹する。

この人、ここまでして何がしたいの?

2、「気持ち悪い」と、男性に言ってもらえた希望

そしてその疑問は「5章 加害者性に苦しむ男たち」までくると、ほとんど恐怖に似た感情にすり替わる。実際、私はこの章、読み進めるごとに鼓動が早くなってしまって休み休みでないと読めなかった。

清田氏と同じく、なんらかの理由でジェンダーやフェミニズムの問題に関心を持った男性が、自分の行いの加害者性に気付いてしまった時に陥る苦しみがいくつかの例をもって紹介されているのが、特に印象的だったのはSさんの話。

Sさんはお姉さんが親戚に性暴力を受けたにも関わらず、うやむやにされてしまったことがきっかけで、ジェンダーの問題に関心を持つようになったという。
大学3年の時、幹部として所属していた登山部の練習で1年生の女子が怪我をしてしまった。彼女の怪我は、男子の体力に合わせた練習メニューが原因だったのではと考えたSさんが彼女にヒヤリングを行ったところ、生理で体調が悪かったこともわかった。責任を感じたSさんは彼女のケアに力を注ぎ、その過程で恋心のようなものが生まれてしまったらしい。そして、松葉杖での通学が始まった際、病院への送迎を申し出た。すると彼女は「ありがとうございます。でも病院には自分で通えるので大丈夫です」と言ったそう。
Sさんは「思い起こすのもおぞましい」としてそのやりとりを振り返っている。

「僕は怪我をした女性に対し、どこか恋愛的な文脈で近づこうとしていたわけですよね。彼女の危機を救ったというヒロイズムのような気持ちを抱いていた部分も確実にありました。先輩と後輩という権力構造に乗っかった上、救護担当という役職まで利用しながら自分の恋愛的な欲望を密かに叶えようとしたわけです。おそらく彼女にはそういった魂胆が伝わっていたのだと思います。ヒアリングの時には味方になってくれた先輩が、次第に役職や権力構造を利用して自分に恋愛的な感情をぶつけるようになってきた。彼女からすると、あの時助けてくれたのもそういう目的だったのかとなるわけで、すごく気持ちの悪い話じゃないですか。そういう部分で深い絶望や失望を与えてしまったのではないか・・・」

このSさんの言葉を読んで、私は泣いてしまった。

『ヒアリングの時には味方になってくれた先輩が、次第に役職や権力構造を利用して自分に恋愛的な感情をぶつけるようになってきた。彼女からすると、あの時助けてくれたのもそういう目的だったのかとなるわけで』

ここまで明確に言語化して認識していなくても、似たような状況は本当によくある。

清田氏の流れに合わせてサブカル界隈でいうと、バイトとかサークルの音楽詳しい先輩が、マニアックでかっこいいバンドを色々教えてくれて、CD貸してくれて(今CD借りない!!)、師匠としてすごく頼りにしてたのに、一緒にライブ行って酒が入っての帰り道、いきなり手を繋いでくる、とか。
もっと深刻な話で言えば、若年層への性的行為はほとんどがこれに当たると思う。年上のお兄さんと仲良くなれるのが嬉しかっただけなのに、いつの間にか、性的な関係を迫られ、恋愛感情と年輩者への思慕の区別もつかないまま、今の関係を続けるには相手の性的欲求を受け入れるしかないとなってしまうこと。
恋愛感情じゃなかった場合、性的関係の後に残るのは、虚しさと行き場のない苛立ちで、誰かに相談しても、悪いのは「股を開いた女(自分)」ということになってしまう。

ただ仲良くなりたかった男性から、今の関係を続けるための交換条件として差し出される恋愛的文脈や性的関係。男女の友情は成立しない、と平然と言ってのける男性たち

今まで自分が抱いてきた、言葉どころか明確な感情の形さえ取れなかった何か、もはや感じていることさえ忘れてしまっていた感情を、「気持ちの悪い話」とはっきり言ってもらえた喜び。
そして、この喜びを与えてくれたのが、私をうちのめし続けてきた男性自身だ、という予期しなかった希望。
私はしばし、Sさん自身の苦しみを忘れて、この喜びと希望に打ちひしがれた。
こんな風に自分の行動と気持ちを客観視し、女性の想いを想像してくれる男性がいるんだ。

私は感じたことのない希望に満たされた。

3、私の目的は「復讐」ではないが、「受け入れること」でもない

が、しかしこの話の本題はそこではない。
Sさんはこのやり取りの後、深い後悔の念の中で長い時間を過ごしていたという。自分の中に男性としての加害者性、つまり嫌悪していたはずの親戚と同じものを見出し、それをあろうことか好きな女性にぶつけてしまったと考えている。

桃山商事でSさんの相談を受けた際には、Sさんの「行動」になんら問題はない、分からない「心の問題」についてはこれ以上自分を責めなくてもいいのではないか、失恋もショックもあるかもしれない、ということになったようだ。

私は、Sさんがいうように彼女が「深い絶望」を感じた可能性もなくはないと思う。より正確にいえば、彼女が「深い絶望」へ迷い込む一つの要因になった可能性は大いにあると思う。
ただひとつ言えるのは、Sさんは親戚のおじさんとは全く違う。同じ男性で、同じ加害者性を持っているとしても、Sさんと親戚のおじさんが同じであるはずがない

この本を手に取る前、私は被害者として、加害者の罪名を探していた(①の冒頭参照)。自分が罪を犯していることにも無自覚なクソ野郎に罪名を叩きつけ、裁いてやりたいと考えていた。

Sさんの話を読んで私は、目の前に、考えてもみなかった壁が立ちはだかっていることに気がついた。
彼らは、自分が罪を犯していることに気がついていないからあんなにムカつく存在なのだ。
もし、彼らが自分の罪に本当の意味で、気づいてしまったら?
自分の何気ない行動が、大切な人を心身ともに深く痛めつけていると、罪悪感に囚われてしまったら。

罪悪感上等! 苦しんでくれないと意味ない、と思っていた。

でも、本当にそうなんだろうか。
そんな復讐心まがいの場所から、何かが始まるだろうか。

だからといって「苦しめるのは嫌だから、謝ってくれるならこのままでいいよ」とはもう言えない。こんなおかしな現状は受け入れられない、という事実にも向かい合わなければならないのだ。

4、「理解し合いたい」のは女性だけ、という絶望のために

相手がどんな靴をはき、何を知らず、何を見ないできたのか、男女ともに互いを思いやってひとつひとつ紐解いていくしかない。

とはいえ、相手は人類の半分を占め、長い時間、その特権に浸ってきた巨大組織である。

P157
何重にも織り込まれた基準によってゆらゆらと実体を現さないまま利益を得つつ、責任からは巧妙に逃れていく

男性社会という巨大な組織でなくても、男性一人目の前にしても絶望にしそうに、いつもなる。
こちらがいくら相手を知り、理解しあいたいと望んでも、相手はそんなこと望んでいない。女性の理解を避ける、ひいては男性自身への理解さえ避けることで、快適に暮らせるように作られた社会に、無自覚のうちにどっぷりと浸っているのだから。

男性と向かい合った後の絶望(本書の中の言葉で言うところの「話の通じなさ」)を思うと、全てを諦めたくなる。
これまでも、これからも、無限にあるだろうそんなとき、「男性」と一括りにしようとした自分を反省し、再び立ち上がる勇気をもらえる
女性にとっては、きっとそんな本だと思う。

だからやっぱり、清田氏は私にとって、度重なる嵐にあい両目を失っても、御仏の教えを伝えなければと日本にきてくれた鑑真のような人なのである。

5、どんな人間として、生きていきたいか

「夫婦別姓で犯罪が増える」というトンデモ発言をした政治家に触れて、清田氏はこう述べている。

P185
考えずに済んでいることを改めて考えるのは確かに大変だ。しかも、知れば知るほど知らなきゃいけないことが増えていき、面倒は確実に増す。しかし、無知のまま生きるよりよっぽどマシではないだろうか。「選択的夫婦別姓は犯罪が増える」という愛媛県議員の発言は、男性特権が生んだ無知の末路だと私には思えて仕方がない。そんな人間にだけは絶対になりたくない。

私も、絶対になりたくない。
フェミニズムの観点でいえば、女である私は弱者だけれど、他の観点では、強者の時もきっとあって、その時も、この言葉を忘れたくない。

どんな人間になりたいか。どう生きたいか。
ジェンダー論やフェミニズムの世界へ分け入っていくことは、そんな問いに、に深くかかわっていると思ったのでした。

この記事で紹介しているのはこの本です↓
『さよなら、俺たち』清田隆之(桃山商事) スタンド・ブックス


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