読んだ本:「わたしたちに許された特別な時間の終わり」岡田利規(新潮社)①

オペラシティで開催中の「ドレス・コード展」に行ったらチェルフィッチュの展示があって、少しだけ読んでそのまま本棚に入っていたことをずっとなんとなく(というのもおこがましいほど極々少し、でもずっとというのは本当)気にしていたこの本を、10年越しに手に取る。

2本の中編。この投稿では『三月の5日間』。

小説は、イラク戦争開戦直前の3月、六本木で行われた戦争に関するパフォーマンスイベントの会場で出会った男女がその日から過ごしたラブホテルでの5日間が描かれる。

イラク戦争は2003年に始まったので、もう17年前。イラクに大量破壊兵器が隠されているとして、アメリカ・ブッシュ大統領がイラクへの攻撃を予告。それに対して、賛同する国、反対する国、各国の権力者は真っ二つ、世界中各地の民衆の間でも大規模な反戦運動も巻き起こり、まさに世界戦争な感じだった。どこかで起こっている戦争、誰かが決めてやっている戦争、ではなく、その戦争に対して自分たちが何か言うことで、何か行動することで、その戦争を揺れ動かせるのはないかというような。そういう感じがあったような、気がする。わたしは当時、大学生で、目の前の生活を満喫することに熱中していて、自分が戦争に何か思っていたかというところについての記憶が全くない。まさに、この小説の登場人物たちのように外界と遮断されたラブホテルで暮らしてたようなもんだった。それも、自分がラブホテルにいるのだ、という自覚さえなしに。5日間どころでなく、年単位で。結局、日本も同じ年の6月には事実上、参戦的な感じで自衛隊を現地に派遣したんだから、今考えると恐ろしいな、と思う。恐ろしい?それは何に対して?

パフォーマンスは、外国人によって行われる。舞台と客席に、それぞれマイクが用意され、演者と客の自由な発言によって成り立つ。言葉は双方向に通訳される。はじめに演者が二人、発言する。1人は初めての労働について、1人は日本で見たイラク戦争に対するデモについて、それぞれ短く、主張のようなものは含まない簡潔なもの。耐えるには長い、自分が立ち上がるには短い沈黙の後、客席に初めての発言者が現れる。白髪の中年男性は目の前で起ころうとしている戦争と、過去にあったベトナム戦争のことを話す。彼の発言に距離をとったような会場の空気感、けれども人々は次第にマイクの前に立ち始める。そして発言することの敷居が低くなっていくごとに<ここが日本じゃないような気分>になっていく<僕>。

あのライブハウスで観客たちがマイクの前で話していた日本語がどれも、なんとなくだけど英語みたいに聞こえたことや、どうして僕がそう思ったのかということ、パフォーマーが外人で、だから当然英語で話していて、ということだけが、しかしその理由というわけじゃないと思う。

イベントの後、会場内で会った女の子とラブホテルに直行し、その後過ごす5日間ずっと<ここが日本じゃないような気分>は続く。

あのパフォーマンスって俺、俺なりにだけどね、すごいよかったなーあれ、って今、思ってるんだよねーーほんとうに僕は興奮していたのだ。あのパフォーマンスは、僕にとって終生特別なものになる気がしていた。セックスのあとだからというのもあって、僕は興奮の素直な気持ちを彼女に伝えたくなっていたのだと思う。

パフォーマンスで発言しなかった<僕>が、<自分の友達がマイクの前で盛り上がった気分で話しているのを><醒め>た表情で見ていた<彼女>に興奮して伝える<すごいよかった>とは、何なのか。

あのパフォーマンスのような場所や雰囲気を、日本人は日本人だけで作り上げることはできない。そんなことは想像できないし、仮に日本人だけの力でそうした雰囲気が作りあげられていたとしたら、そんな作り笑いみたいな気持ち悪さの中には絶対入りたくない。

マイクは万人に対して開かれている。どんな発言も、発言しないことさえ許されている。自らの主張としてではない<ノー>もある。時折はさまれる演者によるバンドの演奏も<全部ヘタクソだった。でもそれでよかった。><日本>という日常から浮遊した特別な空間。日常には存在し得ないという諦念とともに<日本人>がその特別な空間の中にいる一存在であり得た奇跡。
彼らは、マイクの前に歩み出る<日本人>と距離をとりつつも、しかし、その場から立ち去るのではなく、<俺なり>の<興奮>を得ていて、その感じを緩やかに共有し、日常から遮断されたラブホテルに籠ることで、それを維持し続ける。

さらに二人は、セックスを繰り返すうちに普段の<時間>からも遠ざかってゆく。

時間が私たちのことを、常に先に先に送り出していって、もう少しだけゆっくりしていたいと思っても聞き入れてくれないから、普段の私たちは基本的にはもうそれをすっかりあきらめているところのもの、それが特別に今だけ許されている気がするときのあの感覚
でも、お腹が空いてしまった。

同じ肉体の欲求でも、性欲は時間と空間を遠ざけるのに、食欲はそれらを強く引き戻す。ホテルに入って何日目かも何時かも分からないまま彼らは渋谷の街に出ていく。

空はくぐもっていて、雲とまったく変わらない色をしている。でもこの色こそ私たちにとってほんとうの空の色だ。太陽が前に見たときと同じ姿だったので、ヘンな話、ちょっと懐かしかった。
(略)九百五十円のインド料理のバイキングに入った。スクランブル交差点のすぐ近くにある店だった。前々からなんとなく気になっていたけど、フリーターの身としては九百五十円はきもち高いので、今まで入ったことはなかった。(中略)しかも私たちは、二人ともフリーターで貧乏だというのに、プラス二百五十円で付いてくるラッシーがどうしても飲みたくて、奮発して飲んだ

このあたりの、日常の渋谷の街で、特別な空間と時間を維持したまま過ごす二人の描写がとてもいいなと思う。そして、ラブホテルへ戻ったときの、その一節がすごくいいなと思う。

部屋に帰ってきたとき、ものの二時間もそこを離れていなかったはずなのに、随分長い間空けていたような気がした。そのとき、私はその部屋への懐かしさとしか言いようのない感情が、私の中に生成されかけていることに、途端に気付いた。そして少なからず驚いた。そうしているうちにもその感情は、みるみる育った。そしてあっというまに私を満たしてしまった。馴染んでいる感じというものは、今みたく一瞬にして生成されるものだということを、私はこのとき初めて身をもって目の当たりにし、知った。この感情はその後、とても弱くではあるけれども、しかしずっと私に付きまとった。

それから、この特別な空間にも日常の小さな波が見え隠れし始めて(大江健三郎が解説で引用している部分なんか、ほんとな、すごいな)、この生活をあと二泊で終わりにしようと話し合い、時間がこの部屋に侵入し始める。それからお金。そして、今まさに始まろうとしている戦争。<ラブ&ピース>が日常に捧げられる祈りであるなら、彼らの<セックス&ウォー>は非日常に捧げられる祈りだ。

<超スペシャル>な二人に許された特別な時間の終わり。渋谷駅で別れた後、女はこの特別な時間をもう少し引き延ばしたくて、<二人のホテル>へ向かう<方向>に引き返す。しかしそこにいたのは、路上で用を足すホームレスで、彼女はそれを見て吐き気を催す。

吐いたのは糞をしている光景を目の当たりにしたからではなく、人間と動物を見間違えていた数秒が自分にあったことがおぞましかったからだ。

彼女が<見間違え>たのはなんだろう。そしてその<数秒>は、どれくらいの時間なんだろう。

私が今2020年のドトールで、2003年の自分を思い出して感じる恐ろしさは、戦争そのものへ、ではない。

ーーーーー

こうやって読んでみると、単純に、とびきりロマンチックなラブストーリーとしての側面もあるんだんだなあと思ったりしました。あと、前半の<ミッフィー>について触れてないことに気づいた!これじゃ全然だめじゃん。あとで書き直そう。

ーーーーー

これみよがしに洗いざらしの、ぱりぱりしたこのリネンの感じには、人間がセックスをしたりすることに対する、嫌悪や軽侮が示されている気が、僕にはする。(中略)このベッドはどうせ一人ではなく誰かもう一人と一緒に寝るベッドなんだから、シーツが多少無愛想だって問題ないだろうと、僕は誰かに見透かされているーーでも誰に?ーーホテルの従業員に。それからシーツそのものにーー

次はもう一つの収録作「わたしの場所の複数」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?