連載:バブル経済崩壊と不況の雇用史1 空前の売り手市場から買い手市場にー

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 一九九○年代と聞いて皆さんは何を思い浮かべるだろうか、と問わざるを得ないほど時代が流れた。バブル経済が事実上崩壊してから今年で三一年になるが、忘却の彼方へ行ってしまったかの如くあの頃に言及する記事は少ない。もちろん私も別に"あの頃"を知る訳ではない。ただ九八年ごろ、幼心に「今はけーきが悪いんだね」と感じてくる位、長引く不況が尾を引いていたことは覚えている。日銀の緊縮策により一気に冷え込んだ日本経済の影響を特に受けたのは、滅私奉公型のサラリーマンと、これから世に出ようとしていた学生達だった。

職安に押し寄せる人々たち、子連れも中には

 今(二○二一年)は職を探す手段は多様化した。インターネットで検索すれば求人広告がすぐに出てくるし、転職サイトや人材バンクも雨後の筍の如く増えている。むしろ、ネットを使わず仕事を探す人々が珍しくなったくらいだ。
 しかし九○年代、まだ勤め先を探す方法は限られていた。公共職業安定所(ハローワーク)や就職案内、知人の紹介などで勤め先を探すのが当たり前の光景だった。
 証言によれば、バブル景気の最中の就職は今以上の買い手市場だった。JNNニュース(TBS)で紹介された当時の様相では学生を囲いうための企業のあれこれが映し出されていた。学生を入社させるために車をプレゼントする自動車販売店。スキー旅行をプレゼントする商社等、まさに学業そっちのけであった。
 ところが九○年にバブル経済が事実上崩壊すると、徐々にその影響が目に見えて感じられるようになった。企業のリストラを受け失業した人々。大学は出たけれどもー働き口のない既卒者。仮に仕事があっても、選考まで行かないのだ。運良く選考に進んでも、定員を上回る応募が殺到し、まさに蹴落とし合いの椅子取りゲームに身を投じなければならなかった。そしてそれは四大卒の学生だろうと同じことであった。
 崩壊直後ではないが、九八年一○月ごろの千葉日報にはこのような記事が紹介されていた。「千葉市中央区のハローワークには子連れの夫婦の姿もあった。夫が転勤を命じられ、事実上解雇された。夫婦で仕事を探すが中々...」。仕事が見つからぬまま学校を卒業したり、勤め先をリストラされ職を失った人が押し寄せる駆け込み寺のような存在がハローワークになっていた。

人減らしと採用の縮小迫られる企業

 バブル期に必要以上の人員を抱えた企業が次に迫られたのは、急速な景気の悪化に伴う人員の削減だった。一例として、大手企業では九三年にパイオニアが40歳以上の管理職への年俸制導入と成果主義の導入を行い、更に実績を出せない社員は解雇と厳しいリストラ策を提示した。いわゆる「窓際族」を扱っていた日本電気や富士通等の電機大手も中高年社員の出向や転籍といったリストラ策を次々と行い、「成果・生産性のない社員の居場所はない」と言わんばかりに人減らしを強行していった。この頃新聞やテレビの経済欄を賑わしていたのは、会社に尽くせば年功序列で役職と給与が上がる時代の終焉「崩れ去る日本式雇用」という記事だった。
 社員のリストラを進める一方、人員の適正化を図るため入り口を狭めることも当たり前になった。それまで五○~一○○名位の採用を行っていた企業が突然若干名(一○名程度)と人数を減らしたり、採用を取り止めてしまう等の対応をとる企業が相当数にのぼった。地方大学の学生が選考にさえ進めなかったり、選考に通過して試験まで進んでも蹴落とし合い、面接はふるいにかけるかの如く冷ややかな圧迫面接であった。旧帝の学生が五○~一○○社応募しても一社程度しか内定がないというのは珍しくなかったが、そこに追い討ちをかけたのは「誰でも社員になれた」昭和世代の両親やバブル期採用の先輩達との認識の違いだった。
 当然中には、とうとう仕事にありつけず、仕方なくアルバイトや家事手伝いといった自身の望まない仕事を始める者もいた。
 こうして企業は人減らしを続けたが、その結果現代においていびつな年齢構成となるなどの弊害が起きていることはご承知の通りと思う。
 その当時千葉県千葉市の建設会社で人事を担当していて、現在は故郷の館山に住む男性(六九)は「当時の社員や学生達には正直気の毒なことをしたと思っている。これまで頭を下げなければ来なかった学生が、向こうから雇ってくれと要望してくるのに面白ささえ感じてしまっていた」と話した。

産み出された「就職氷河期世代」とツケ

 それでも、希望しない職種だろうと正社員の仕事にありつけた学生はまだ幸運だった。五年先がわからなくても、とりあえず当分の間の首が繋がったからだ。しかし仕事が見つからぬまま学校を卒業した人たちはどうなっただろうか。ある男性は就職先が見つからないまま大阪の大学を卒業。アルバイトを一○年以上続けた後、愛知県の大手製造業の派遣社員に転職した。しかし身体を壊しても傷病手当金もない。派遣会社が用意した寮で見えない明日を見つめながら日々を過ごしていたが、彼を直撃したのはリーマンショック(二○○八年)だった。急速な景気の失速で仕事を失い、彼も派遣期間満了で契約終了となった。その後今でも彼は望んでいる正社員の職にはありつけず、現在はコールセンターの派遣社員として暮らしていた。両親も年老いて、街で周りを見渡すと自分と同い年、あるいは年下の男女が子供を連れて歩いている姿が目に飛び込んでくる、それが彼にとっては一番辛いという。婚期はとうの昔に過ぎた。やがて介護の問題も出てくる。経済的に裕福なわけでもない。そんな彼の現実をいったい今更誰が変えてやれると言うのだろうか。全てを自己責任の四文字で片付けられる話とは到底思えない。
 そして日本社会が捨てたのは人材だけではない、未来までも捨ててしまった。不安定な雇用環境且つ低賃金という双子の負債は彼らから余裕さえ奪った。毎日新聞ウェブ版二○一九年一二月二三日付記事によれば、本来は九五年~○○年にかけて第三次ベビーブームが来てもおかしくなかったという。しかし当時の日本経済は言うまでもない有り様であった。
 昨今になってようやく政府も就職氷河期世代支援を始めたが、もはや手遅れではないか。いったい誰が彼らの「失われた二○年」を補償するのか。

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