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教育虐待って知らんかった

こういう言葉を知らなかった。木下さんのVoicyを聞いて、なるほど、一般的な児童虐待のなかでも、過剰なお受験に走り子どもが疲弊したりすることなのかと、学びになった。


ちなみにウィキペディアの説明によると

教育虐待(きょういくぎゃくたい)とは、児童虐待の一種で「教育熱心過ぎる親や教師などが過度な期待を子どもに負わせ、思うとおりの結果が出ないと厳しく叱責してしまうこと」を指す[1]。子供の人権を無視して勉学や習い事などを社会通念上許される範疇を逸脱して無理強いさせる行為である。

ウィキペディアより

例として、みんなの教育技術というサイトでは

教育虐待の例は、「夜遅い時間まで勉強することを強制する」「テストで親が思った点を取れないと罵倒する」などです。教育虐待に陥りやすい親の特徴の一つとして、自身の学歴にコンプレックスがあることが挙げられます。子どもにはよい教育を受けさせようと「教育熱心」が行き過ぎて、子どもの許容範囲を超えた勉強を強制したり、子どもの自尊心を傷つける発言をしたりすると、教育虐待となってしまいます。

みんなの教育技術

なるほど、教育熱心な親の過剰な行動パターンとして出てくるわけだ。しかし、親が子どもに自分の価値観を押し付けたりする場合も、近しい現象は起こっているわけだ。

私の今回の主張は、私が、私の周りの大人も、子どもに対し(若い世代に対し)いろいろなことを指導という名の下で押しつけ、〇〇ハラと言われかねない、行動を無意識にやっていないだろうか。自覚的になろう。
委縮して、叱れないというのもよくないが、対極の虐待という思考や行動を知っておくことは大切だろう。

これも引用で、教育虐待をチェックする「4つの問い」というのがあった。

子どもは自分とは別の人間だと思えていますか?(YES・NO)
子どもの人生は子どもが選択するものだと認められていますか?(YES・NO)
子どもの人生を自分の人生と重ね合わせていないですか? (YES・NO)
子どものこと以外の自分の人生を持っていますか? (YES・NO)

こどもまなび☆ラボ

やんばるでの状況

一部、教育熱心な親御さんの受験への意識の高さはあると思うし、塾通いや中高一貫校への進学やアミークス(インターナショナルスクール)に通わせている人もいるので、意識高い人はいる。
個別の具体例はないが、お受験的な過熱感というよりも、自分が若いころできなかったことを子どもに投影していることや、勉強ではなく、スポーツなんかでは、野球を筆頭にあるな。
習い事でも、小学生まではほんと熱心な親がいるなという気はする。うちもそうだったかなとも思う。
別のエントリーにも書いたが、学力が低い沖縄では、違う意味での中村敦彦さんがいう「底辺」の方が問題なんだろう。こっちの闇も深いので、今後きちんと見ていきたい。

我が家では

人のことはよくわからないので、自分を振り返ってみる。私の3人の子どもは高校を卒業し、親元離れて生活している。子どもたちが小さかった頃は、確かにピアノやお習字、バレー、ミニバスケなど共働きだったので、学童保育がわりと言ったら語弊があるが、まぁ週末や長期休みも含めて、忙しかった印象である。今となっては、楽しい思い出であるがとにかく何か、行事に追われていた感はある。日曜日の夕食に家族がなかなかそろわない。

母性と父性の違いはあるんだろうけど、男性の私から見てパートナーの子育てのスタイルは、教育熱心だったと思う。特に最初の子の時はもう、教科書やメディアの情報で、子育てのマニュアルというか周りの言動で西遊されていた部分もあった。
しかしそれも、親も成長し、経験を積んでくるとまあ落ち着くところに落ち着き、子どもへの過剰な期待が薄れていくのと、自分が忙しいので、もちろん子どもの教育には関心は高いが、働き盛りと子育てに手のかかる時期とが重なっていたので、いろんな人の協力を得てこなしていた。
教育虐待がなかったか、上の質問で自問自答すると、Yes・No質問であるが、Yes&Noという感じだろうか。グレーというか、グラデーションがある。最終的には自分の「人生だから自分で責任取れ」ということで付き合っているが、パートナーとその認識を共有できているかというと、これも怪しい。

共通認識をひろげていく

今回のまとめしては、教育虐待になっていないか自覚的になろう。無意識にそういう行動をしていることがまずいので。
自分の身の回りにも、親の役割、地域の役割、学校の役割を再認識するお喋りというか、議論のステージにあげて、これからの教育・会社等での人材育成を考えていく。

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