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映画『THE FIRST SLAM DUNK』 スラムダンク リョータの強さと三井寿について


平成3年生まれの私の世代はおそらく最初はテレビアニメとしてその存在を認識したであろう「スラムダンク」バスケットボールとの関わりの有無に限らずその名を知らない人はいないはずである。私がはじめて漫画を読んだのはミニバスの同級生(たっくん)が全巻を貸してくれたとき。そしてその本に描かれていたストーリーは一気に私の中のバスケ熱を加速させ、切り離せないバイブルとなった。


自分で全巻揃えたのは2018年に新装再編版が発売されたとき。今でも全巻購入特典の特製・特大ポスターはリビングのど真ん中に鎮座していて、寝室の一角にはスラムダンクコーナーを設け、それらの本や今回の映画のパンフレットなどが並んでいる。



1回目より2回目め、2回目より3回目のほうが泣けたのはなぜだろう?もちろんその先を知っているからだとも思うけれど、映画を観るたびに感動が積み重なること、新たな発見がいくつもあること、感じるものが変わってくること、本当に沢山の要素が化学反応を起こして心に訴えかけてくる。ここまで映画館に通い詰めるのは初めてで、8月31日に終映となることが発表されてからもう一度観に行った。4回ではまだ足りないというのが正直なところである。



主人公は宮城リョータ。その生い立ちと山王戦がリンクしながら物語は進んでゆく。沖縄から神奈川へ。壮絶な少年時代を過ごしたリョータ、そしてその家族。湘北メンバーそれぞれにもスポットライトが当たり、山王の応援や選手たちの気迫はスクリーン越しでも鳥肌が立つほどだった。映画を見終わってからまた漫画を読んだけれどその再現度の高さにも驚いた。何気ないようなセリフでも劇中では大きな意味を持つものもあり、映画と漫画の往復で感じることも多かった。


コート上だけでなくその人生で幾度も困難にぶち当たりそのたびに悔しさや惨めさ無力さを感じても自分の中へ押し込めて「めいっぱい平気なフリを」してきた宮城リョータは、そのすべてを自身の力に変えてきた選手なのだと思った。かつての問題児がここ一番という時にハドルを組むようチームメイトに声をかける姿には胸がいっぱいになる。私はポイントガードを「やる」ことと、ポイントガードが「できる」ことは似て非なるものだと思っていて、宮城リョータは圧倒的に後者だ。


なにより終わり方が好きだと思った。スラムダンクの世界と今の世界がリンクするから。海外で活躍する日本人選手が出てくるなんて数年前までは夢のような話だった。その歴史をこの目で直に見てこられたこと、そしてバスケットボールに出逢ったことにさえ、感謝したくなるフィナーレだった。私はこの最後の瞬間のために、リョータがアメリカのコートに立っている姿を観るために何度も映画館に足を運んでいるのかもしれないとまで思う。17年間バスケットボールのことだけを考えられなかったからこそ、彼の異国でのバスケットボールライフがより実りのあるものになることを願わずにはいられない。

ちなみに、その時リョータが履いているシューズが私が愛してやまないタイチミッドであることもここに記しておきたい。





最後に、私の三井寿についても残しておく。

ミニバスで最初にもらったユニフォームが13番でそれ以来ずっと特別な数字となっている。大学ではすでに13の先輩がいたため彼の14を足して27にした。結局そのユニフォームに袖を通すことはなかったけれど私の最後の番号になった。おそらく友人たちは皆、シューター推しゆえの三井寿推しだと思っていると思うが、生まれてこの方「三井寿一筋」なのはそれだけが理由ではない。(もちろんあの3Pには心底惚れている)



「車椅子で生活することになる可能性もある」「選手以外で関わる選択肢を考えた方がいい」執刀してくれた先生や理学療法士の先生に将来を心配して沢山の言葉をかけられた大学生の船岡はひたすらに恋焦がれたバスケットボールにさよならを告げた。当時はボールを見ることさえできなくなっていた。

しばらくして立場を変えマネージャーとして体育館に戻った自分の選択を誇りに思う。マネージャーに転向していなかったらこの職業を目指してはいないし今の自分はいないしなにより素晴らしい人たちとの出逢いが私に「後悔」という念を抱かせなかった。明治大学体育会男子バスケットボール部主務。人生において大切で重要なターニングポイント、経験、時間である。

でももし。もし中学で怪我をしていなかったら。もしあの高校に行っていたら。2度目の前十字靭帯断裂がなかったら。6回で諦めず7回、8回と手術をしていたら。私はもっと長く、あと数分でも数秒でもコートに立てていたのではないかと、ありもしない「もし」と選ばなかったもう一つの道を今でも、自分でも笑ってしまうが今でも想像してしまうことがある。

本当のことを言おう。歩けなくなっても将来を思い描けなくなってももうどうなってもいいからコートに立ち続けたかった。19歳でユニフォームを脱ぐ決断をしたあの日の自分へ。



三井寿のシュートがその思いを浄化してくれる。



中2で最初の怪我をした時、もう本当にすべてが嫌になった。それでもただバスケが好きな気持ちだけでコートに戻った。2度目の怪我のときには離れるという選択肢すらなかった。辞める決断も諦める決断もそのすべてには痛みを伴う。ただ「戻る」という決断にはその痛みに加え恐怖が付随すると思うのだ。彼はそれすらも超えていった。


「安西先生、バスケがしたいです」


その勇気と願いがこもったボールがリングに吸い込まれてゆく。どんなに悔しかっただろう、戻ってからもどれだけあの日々を悔いただろう。それでも何度でも不死鳥のごとく彼は甦りコートで煌めく。その心が嘘ではないことを自身の飛び道具で証明するのだ。何度映画を観ても、漫画を読んでも、三井寿という男が3Pシュートを決めるたびに冗談ではなく嘘みたいに涙が溢れる。徳男と張るくらいには泣いている自信がある。彼のシュートの一本一本にはそれだけの想いが詰まっていると信じている。


気持ちが重すぎる?それくらいでちょうどいい。あきらめの悪い男に、生まれてこの方一筋な私は、何度も手術してマネージャーとして復帰し今では喋り手としてバスケットボールを追いかける、相当あきらめの悪い女である。






追記

8月30日、沖縄から東京に戻った。
ずっと追い続けてきたバスケットボール。
夢のような空間で日本代表の勝利を見届け
私には8月中にもうひとつしなければいけないことがあった。

そう、終映を迎えるスラムダンクを観にいくこと。

思えば映画の情報が公開されたとき
こぶしとこぶしがぶつかっているポスターがあったけれど
あれは宮城兄弟の絆だった。
ソータが山王を倒すと言った思い出は
リョータの心に深く刻まれていた。
ユニフォーム姿で母を抱きしめるリョータ。
ソーちゃんが立つはずだった場所に立ちますと
インターハイに向かった。
勝利のあと空を見上げたリョータの目には
兄の優しい笑顔が広がっていたに違いない。

8月31日
品川で私は泣いていた。
5度目もやはり涙が溢れて止まらなかった。
(もちろん私の三井寿は相変わらずかっこよかった)


8月31日
その日の夜に日本代表は自力でのパリ五輪出場を決めた。


9月1日
SNSの情報で新聞を買いに近くのコンビニに走った。
一面に広がる広告には宮城リョータがいた。
彼はこの日も練習に行ったらしい。


「いくぜ。」




そう、まだまだ終わらないのだ。
夢は目標は終わらない。
私は努力をやめない。

バスケットボールを愛する限り。







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