素質0のダイエットジョガー女子が高校陸上部長距離へ〜自己紹介3〜

オーバートレーニング症候群のnoteに反して、予想以上にいいねを頂いている自己紹介シリーズ。
こんなに長い文章にお付き合いありがとうございます🙇‍♀️

↓今治療しているオーバートレーニング症候群についても書きました、こちらもぜひご覧ください。個人的には③が一番伝えたいです。


今回は高校時代の実績を書きたいと思います。
結論から言うと、大したことありません。


想像を超えて圧倒された仮入部

さて、前の記事でもお話ししたように、
消去法で残った陸上部長距離へ入部を決意した。
春休みから仮入部ができるというお話を頂いたので、少しでも早くきついだろう練習を始めて練習に慣れるように仮入部を希望した。
最初に挨拶をして、陸上未経験であることを伝え、アップへ。
アップで2km走ります!の一声でスタート。

当時の私の心境
え、ウォーミングアップで2kmも走るの…?もうそれで疲れそう…
ダイエットジョガーだったので5kmを超えると神の領域に感じていた自分にとってはものすごく衝撃だったことを覚えている。

ウォーミングアップから緊張しながら頑張って走った。先輩方はお喋りしながら楽しそうに走ってるのに、自分はウォーミングアップからついていけるか不安でたまらず、気が抜けなかった。
結局なんとか走り切って一安心したが、わりと一杯一杯だった。
そしてストレッチをし、動き作りのドリルをした。よくあるランジや腿上げなど。別の日は短距離と混じってハードルドリルもやった。
他のスポーツはやっていたので、初心者にしてはボチボチできたが、やっぱり先輩方のように綺麗にはこなせず、伸び代たっぷり。
そして
流しをやります!100m1本!
と言われ、
え、どれぐらいで走ればいいんですか?
て聞いたら、気持ちよく終われるように走ればいいよ!と言われた。でも
どうせみんな速いから私は全力で走ろう()
と決めて必死に走る。
結果恐る恐る走ると、皆んな本当に全力じゃないのか?てぐらい速くて、私も16秒ぐらいでは走ったのにどんどん置いて行かれて、なかなかきつかったし、
これの後に本練習があるのかと思うと地獄でしかなかった
果たして私はこの部活でやっていけるんやろうか…と先が思いやられた。

仮入部初日のメニューは2000m×3本 r15分
だった。
2000m単体なら頑張れるけど、それを3本も走るの…化け物すぎんか…
と思いながら学校の1kmの外周コースへ。
1本目はせめて頑張ろうとヨーイドンの掛け声でスタート。
男性も女性も凄まじいスピードで、スタートした瞬間に
え、この先輩たちこのスピードで2000mも走るの?しかも3本…??!!化け物すぎる
と衝撃を受けた。早々についていくことを諦め、マイペースを刻み、必死に2000mを完走。
確か9分は切っていて8分台だった記憶があるのだが、当時の自分には絶望にきつかった。
15分あけて2本目も走ったが、もう限界の極みで足が棒になった。呼吸もやばくて血の味がした。ちなみに3本目はギブアップしてしまった。
まぁ今考えると、2000m3本って、普通に今でもきついな()嫌いな練習の1つである。

それでも先輩方から最初なんやから無理せずやろう、と励ましてもらえたおかげで、何とか初日で逃げずに頑張ることができた。

それから200mを10本走ったり、6000m走ったり、今思えば全然普通の練習なんやけども、ダイエットジョガーの自分には毎日がポイント練習のような感じだった。
そんな感じで頑張って自分のペースで頑張りながら初戦を迎えた。


初戦が大阪地区IH

春休みから仮入部していたので、高校の陸連登録が早く済み、大阪地区IHに出ることになった。
800か1500か3000で悩んだが、3000は流石にジョガーには完走もきつそうだし、先輩の勧めと人数の都合で1500mにエントリーした。

初戦より前から陸上の試合は先輩の応援のために見に行っていたが、みんな速すぎて、
世の中にはすごい高校生がいっぱいおるなぁ…
と感激した。
今まで体育館の中でゆるゆると試合してただけの自分には物凄く異様な光景だった。
こんな空気の中で自分が走っていれるのかが心配だったし、ダントツのビリに違いないとビクビクしていた。
目標タイムが全く定まらず、ひたすら完走だけを目標にしていたら、先輩から
とりあえず6分台で走れたらいいんじゃない?初めての試合なんやから
とアドバイスを頂き、どれぐらいのペースとか当時は全然わからなかったけどとりあえず頑張ることにした。
近畿IHに出たぐらいの憧れの先輩から使っていたasicsのスパイクを譲って頂き、気合を入れて走った。
初めてのスパイク
初めての陸上の大会
初めてのトラックでのランニング

全てが新鮮で、ひたすら目の前を追いかけた。
ビリになってでもなんとかゴールはしたい。先輩の応援に応えたい。

結果は5分57秒31
㌔4は切れた。6分を切れたことに先輩方からもお褒めの言葉を頂き、自分でもかなりの達成感があった。
陸上を始めて1ヶ月半で、ダイエットジョガーがここまで走れたのが、割とびっくりした。


キツくてたまらなかったけど、どんどん伸びて行った夏

結局1500mを主体に頑張ることにしたが、
高1の記録はこんな感じ
1500m
5月(大阪地区IH)5:57.31
7月(記録会)5:54.47
7月(大阪総体地区予選)5:46.40
10月(大阪秋季総体) 5:39.03
3000m
10月(長距離記録会)12:03.53
駅伝(1月大阪高校駅伝)
4区6km 25:30ぐらい(リザルト見当たらず)

要するに、大したことがないのだが、
入部前は4kmを㌔5切れただけで大喜びしていて、陸上部に入るなんて眼中にもなかった自分からしたら、相当頑張ったと思う。

しかし、当時は長い距離になると弱いという課題があった。1500mでも後半がきつすぎた。3000m以降はもう苦痛でしかなかった。
練習でも200のインターバルとかは元々短距離の方が比較的得意だったので根性で乗り切れたが、ペース走になったらとことんだめだった。
そこの課題を克服すべく、先輩から頂いたアドバイスが、
とにかくしっかり毎日練習以外でもjogを継続すること。30分からでいいからペースは気にしなくていいから、しっかり時間を走れるようにしていこう。
だった。
ということで冬以降は本来ランニングを始めたきっかけでもあるダイエットも兼ねてしっかりjogを自主練で朝、日課にした。
これが私が高2でのびたきっかけだった。


毎日のjogで飛躍。気づけば長距離体質に。

先輩のアドバイス通り、しっかりjogを毎朝始めた。30分間走り続けるのは1日だけなら頑張れたし、夏休みの夏合宿では吐きそうになりながら60分jogを起伏の中やりきった。
でも毎日となると苦痛でしかなかった。
当時はGPS時計はなかったので、距離まではわからないけど、確実に30分間毎日走れるように頑張った。
そして、時間を徐々に戻し、体重をもう少し落としたい、と考え朝食前に60分jogを日課にするようになった。
最初は60分とか苦痛すぎて何度もあと何分とか考えていたが、徐々に楽になっていった。

するとやはり長距離へのスタミナがつき、練習でもむしろペース走やビルドアップなど、長距離の練習の方が走れるようになった。
そして身体が軽くなり、スピードが出せるようになって行った。

そのおかげで高2の春には1500mを5:27で走れ、5:30の壁を破ることに成功し、3000mでは11:15と、高1の秋より48秒も速くなった
そして高2の夏には1500mが5:07までに迫り、いよいよ5分切りが現実的な目標となり
高2の夏季総体では地区予選を勝ち上がり、府大会にまで進むことができた。
1kmすら苦痛だった私が、陸上で、しかもレベルが高い大阪で、府大会まで進むのはかなりの衝撃だった。これまでスポーツで上の大会に勝ち進んだ経験は一度もなかった自分にとっては、とんでもない出来事であった
実際府大会でも、1500mは予選と同じく5:07だったものの、3000mでは10:53と、ついに夢にも見ていなかった10分台に突入。しかも38℃という3000mには極悪のコンディションで出した。
そして練習でも6kmのペース走では3:43/kmで走り切れるようになり、高校のマラソン大会の大会記録である22:53も練習で、しかも夏で切れるようになった。
これは涼しくなった秋になったらどれだけ伸びるのか…うまくいけば高3では少なくとも大阪IHの決勝進出は固い…と夢が膨らんだ。

しかし、この頃、速くなるために過激な減量を始め、体脂肪率が一桁にまで落ち、病人のような見た目になった。もちろん生理も止まった
しかし私はまだ太ってる、まだ痩せなければ、と思い込み、どんどん食事制限をした。
これが秋にとんでもない地獄に繋がること、そして膨らんだ夢は幻に消えたことに直結した。でも当時はそんなことは想像していなかった。


拒食症に陥り、貧血、内臓出血と過敏性腸症候群で入院寸前に。スランプと毎週大学病院へ通う日々

9月あたりから拒食症がひどくなり、同時に貧血にもなり、全く走れなくなった。
もちろん故障も増加した。
体脂肪率は一桁をキープしないと発狂していた。

男性ならまだしも、女性でそれは明らかにおかしいのだが、当時の自分にはわからなかった。
長距離をやるなら体脂肪率は一桁じゃないといけない、
と思い込み、他の部員からのお菓子も頑なに断り、修行僧のように過ごすようになった。
顧問にも同期や後輩、みんなに心配をかけていたが、当時の自分にはそれに気づくことすらできなかった。
親の食事も太る極悪のもと、と思い込み、こっそり捨てたりしていた。これを悪いと思えなくなっていたのだから、本当に狂っていた。

そして秋には涼しくなったのに貧血で全く走れないし、体脂肪率が一桁になるまで追い込んだツケがきて、スタミナがなくなり、数kmのjogすらきつくなった。
結局大学病院へ行くことになり、総合内科と精神科に毎週のように通った。そのせいで高2の水曜日の1時間目の日本史の授業は受けた記憶がまるでなく、毎回テストだけ必死になって受けていた状態だった。

秋の大会は体調不良と故障で個人戦は全て棄権、駅伝もせっかく人数が集まって大阪の全国予選に出れて、花の1区の6kmを走ることになったのに、ボロ雑巾になって襷を渡し、24分もかかった。酷暑の中でも22分前半で走れていたとは思えない落ちようだった。
終わった後に倒れた。意識がなかったので覚えていないのだが、後から聞くと、泣きながらずっと謝っていたらしい。

内臓出血の疑いがあるまで体調が悪く、精密検査を余儀なくされ、これに引っかかれば手術と入院、というところまでに追い込まれた。
身体はもうボロボロだった
冬の大阪高校駅伝も最後の駅伝のはずだったのに、私のせいでエントリーすらできなくなった。
今までのことが幻のように消えた。
そしてこの拒食症が、市民ランナーになった今でも後遺症として疲労骨折の連発の原因となった。高校を卒業してから6年も過ぎているのに…

このnoteで言いたいのは、

記録を伸ばしたいなら痩せようと思うな、食事制限をするな、生理をなくすなんて論外

声を耳が潰れるぐらい大にして言いたい。
拒食症とかもろもろについては落ち着いたら別のnoteに書きたいと思う。これに関してはちょっと長くなりすぎるし話が逸れまくるのでここでは割愛。


後輩のおかげでラスト駅伝を走る、高校最後の校内マラソン大会でぶっちぎり優勝

冬のラスト駅伝を走れず落ち込み、とりあえず引退試合のIH予選まではなんとか頑張ろうとしていた。
私は受験も高い目標があったので、受験勉強にも割と明け暮れており、部活以外は常に受験勉強をしていた。
年の暮れから体調も少しずつ落ち着き、走力は戻らなくとも、徐々にできる練習も増えてきた。
そして後輩から、
大阪高校駅伝ではないけど、2月に駅伝がある。せっかくなんだから私の本当の最後の駅伝を走らないか、
と提案してもらった。
長距離女子は同学年では私以外いなくて、後輩しか女子はいなかったのだが、本当にいい後輩に恵まれたと思う。

IH予選までモチベがなく、受験勉強もあり悶々としていた中で、モチベーションができてとても嬉しかった。
結局後輩のおかげで、最後という意味も込めてアンカーを走らせてもらったが、ものすごくのびのび走れて、最高に思い出に残る駅伝となった。
本当に後輩に感謝の思いでいっぱいだ。私が高校で陸上を引退まで続けられたのは長距離の後輩の存在が本当に大きかった。
それから徐々に調子を上げていき、高3になる直前には元通りに近い状態まで走力を回復させることができた。
また、高校では6kmになったマラソン大会では、結局長い不調がたたり、校内記録は塗り替えられなかったものの、2位と3分近く差をつけてぶっちぎりの優勝を遂げ、中学から知る友人からは、
最下位だったところから1位を取るのを見ると、努力って報われることを痛感する
と言われたぐらいだった。
本当に人生、何があるかわからないのだ


直前の股関節の故障で不完全燃焼で引退。マラソンへの憧れと走り続ける決意。

結局高3では大阪地区IHは勝ち上がり、初めて大阪IHに出場できることになり、引退が延長された。
1500mを5分切りしたい
これだけが私の思いだった。3000mはもう10分台は出せたので、ベストが出れば嬉しいな、ぐらいにしか思っていなかった。
1500mでなんとしてでも5分を切るために、1人で800m×3のレペもこなした。河川敷で2:32でこなせていた記憶がある。
相当調子が良かったし、このメニューをこなせてたら5分切りなんて余裕だと大体の人は思うだろう、私もそう思っていた。
しかし、直前になり股関節を故障故障が人一倍多かった私だが、結局最後まで故障に悩まされて引退することになった。
当日はロキソニンと整体をフル活用して、包帯ぐるぐる巻きで痛々しい姿で出場。
走ってる時も股関節は痛かった。でも、もうこれで引退なら受験勉強でどうせ何ヶ月も走れないし、もうぶっ壊れてもええかな。
結局庇いながら走り、5:03でおわった。
ベストではあったが、あと3秒を切れず、涙を流して引退した。
この不完全燃焼が今も走り続けている原動力ともなっているが。

3000mも結局あの夏以来11分一桁秒でうろうろして、ベストの更新どころか10分台すら出せずに終了した。
高2の夏に伸びていた時に思い描いていた夢は儚く散って終わった

そしてトラックは自分は苦手だと感じていたし、もう二度とトラックを走りたくないと思っていたが、jogを始めた時から、長距離を走ることが好きになって、
フルマラソンを走りたい!
と夢見る
ようになった。
しかしどこのフルマラソンの大会要項を見ても、
19歳になる年にならないと応募できない
という規定で、受験生だからとか関係なく夢はお預けとなった。
そして、大学受験のモチベが、
絶対に大学に入ったらフルマラソンを走りたい
というものになり、結局そのためにも股関節を故障して1ヶ月間は自転車すら乗れないレベルで痛めていたものの、完全に治ってからは受験勉強の息抜きのために3日に1回は30-40分のjogはするようになっていた。


結論 世の中から見たら大したことない。でも元々1kmすら走れなかった素質0の自分にしては大健闘したと思う

他のnoteの執筆者はもっとすごい記録の人は多いし、Twitterや InstagramなどのSNSではもはやこの人本当に市民ランナーなのか?て思うほどとんでもなく速い人は多い。
そんな人から見たら私なんてどこにでもいるそのへんのランナーだし、輝かしい記録なんてないと思う。
でも私は当初そもそも陸上部長距離をまさか続けられるとも思ってなければ、始めたことすら衝撃だった。だって私はそもそも陸上どころかスポーツができる人なんて両親どちらの遺伝子を考えても家系的にありえないから、走れる遺伝子なんて全く持ってないし、今でも親族から、
一体どこで遺伝子の突然変異が起きたんやろうねぇ、
と口をそろって何年も言われている。
そして自己紹介1でも述べたように、私は1kmすら走り切れなかったし、400mすらもう今で言うウルトラマラソン並みの努力が必要だった。

次回はいよいよ大学から市民ランナーになった理由、やっとマラソンを走れたこと、今後の夢…を書いていきたい。

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