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#54_まだ見ぬもの、なかった過去へのノスタルジア

先月、タルコフスキーに関する、

「#18_タルコフスキー、まだ見ぬものへの郷愁(ノスタルジア)」

の中で、

“まだ見ぬもの、なかった過去へのノスタルジア、というと、いかにもつたない表現ではありますが、そのような言葉でしか表せないものを、私はタルコフスキーの作品に感じます。

そしてさらに最近は、私(私たち)は、(そのようなまだ見ぬもの、なかった過去を)実は経験しているのではないか、と考え始めています。この点はまだまだ直観で、言葉にはなりませんので、さらに検討したいと思います。“

と書いたのですが、そのことと密接にかかわる体験を、ほかの方もされていることが、ある記事を読んでよくわかりました。

昨日の日経の朝刊の文化面に、歌人・情報科学者である坂井修一さん「うたごころは科学する」という連載記事が載っていました。

要約すると、アレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』(日本だと、『巌窟王』のタイトルで有名ですね)で、主人公のエドモン・ダンテス(後のモンテ・クリスト伯爵)が脱獄してモンテ・クリスト島にたどり着いたとき飲んだ酒が「モンテプルチアーノ」という葡萄の大衆ワインであり、自分もまたそれを飲むと、自分自身の心にエドモンの気持ちが呼び起こされる…という話でした。

「グラスに口をつけるたび、モンテ・クリスト伯爵が獄中で抱いた絶望と希望が、復讐を果たさんとする冷徹な意思が、復讐の過程で周囲の人々を傷つけて動揺する心が、私の中でよみがえってくる。「所詮はフィクションだ」、などといくら言い聞かせても、それは、今を生きる人々の誰の姿よりも鮮やかなのだ」

坂井さんのこの実感を、私自身、心から理解できます。坂井さんはエドモンではないですし、おそらく脱獄もされたことはないでしょうから、その意味で同じ経験はしていないのですが、一杯のワインで呼び起こされる感情は疑いもなくエドモンのそれなのです。『モンテ・クリスト伯爵』に絡めていえば、私の場合は、港に泊まっているヨットを見ると、島で掘り出した宝石をヨットのどこに隠そうか、と考えることがあります(読んだことのある人はお分かりかもしれません)。

自分自身の経験や思い出は、かならずしも、自分が直接体験したことに限られないのではないかと思います。いや、より正確にいえば、目に見える外形的な体験(A)の向こうに本質的な体験(X)があり、その体験(X)の外形的な発現の仕方はさまざま(A、B、C、…)なので、ときにBやCに出会ったとき、私たちは「自分自身の経験や思い出」として感じるのではないでしょうか。

そう考えていくと、自分自身の境界というのは、ほんとうはそんなに固くはっきりとしたものではなく、もっと柔らかい、揺らぎのあるものではないかと感じます。

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