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春にして君を離れ

 アガサ・クリスティーによる異色のロマンス小説と称される作品だが、人の死なないミステリー、いや、ある意味では殺人で幕を下ろす物語と言ってもいいだろう。

(※ネタバレ)

あらすじ

 
 有能な弁護士である優しい夫と3人の行儀のいい子どもに恵まれ、主婦ジョーンの人生は順風満帆だった。自分は家族を愛する良妻賢母。子どもたちは既に巣立ち、夫はめっきり老け込んだものの、自身は女学院時代と変わらず皺もなく、十歳以上若く見えた。

 ある日、次女と婿の住むバグダッドを訪問し終え夫の待つイギリスへ帰る途中、女学院時代の友人に出会い、しばし会話して別れる。その後ある鉄道宿泊所で悪天候により足止めを食らい、そこでそのまま数泊することを余儀なくされる。

 何もすることのない環境下、彼女は不可解な友人の言葉を思い出すとともにこれまでの家庭生活の回想にふけっていく。その中で、愛に満ちていたはずの思い出には徐々に疑念とほころびが生まれ始め、ついには悟るのだ――自分が家族のためと言いながらしてきたことは自己満足にすぎず、個々の幸せを摘む行為であったこと、そして、夫も子どもたちも自分を愛してなどいないことを。猛烈に懺悔したい衝動にかられた瞬間、止まっていた鉄道が動き出すのだが…。
 

 ミステリーはここからだ。帰り着いたら真っ先に夫に赦しを請い、改心して全く新しい人生を歩もうと勢い込んでいたジョーンだったが、実際に夫を前にした途端そんな決意など忘れ、元の無知で自己満足な主婦へと戻ってしまう。さらに、夫の次のような独白で物語は締めくくられる。

君はひとりぼっちだ。これからもおそらく。しかし、ああ、どうか、きみがそれに気づかずにすむように。

『春にして君を離れ』アガサ・クリスティー 中村妙子訳

論点①


 ここで二つの疑問に迫りたい。
 
 まず一つ目は、ジョーンはなぜあの熱烈な懺悔の念を失くしてしまったのかだ。夫と顔を合わせる直前、想像と現実の境界があやふやにあって、あの劇的な悟りが本当にあったこととは思えなくなってきた。そこに至る過程で、帰途再び動き出した鉄道の中で居合わせたロシアの公爵夫人とのやり取りがキーポイントとして浮かび上がってくる。

 エキゾチックで洗練された公爵夫人サーシャは、ジョーンの内面に起こった変化を鋭く察し、詳細を尋ねる。ジョーンはこの夫人に暖かいものを感じ、衝動に駆られて自分に起こった奇跡を全て打ち明けてしまう。サーシャは、それは現実離れした話どころか、至極現実的で多くの人が経験することだと共感を寄せるように見せたが、それまで流暢だった言葉が淀み、表情がかげる。困惑するジョーンにサーシャは突如、自分は旅先のウィーンで手術を受ける予定だが、あまり成功例のない手術なので死ぬかもしれないと告げる。
 
 思い出したいのが、ジョーンが女学院時代の校長から授けられた言葉だ。
 「人生はね、ジョーン、不断の進歩の過程です。死んだ自己を踏み石にして、より高いものへと進んでいくのです。(略)…あなたもやがて痛みを知るでしょう――あなたがそれを知らずに終わるなら、それはあなたが真理の道からはずれたことを意味するのですよ。…」

 つまり、真理の道を歩むには、一度それまでの自己を殺し、そこから新たな自己を築いていかねばならないのだ。この物語において「死」とは、精神の革命を指しているように思われる。

 あらゆることを悟っているようなサーシャはこの時改心の意欲に燃えているジョーンのシャドーであり、サーシャが死の可能性を匂わせたのは、この物語の結末――ジョーンが悟りを開いた自己の方を殺し、無邪気で自分勝手なこれまで通りの自己を生かす選択をすること――の伏線だったのではないか。(とすると、ジョーンが最終の選択をしたと同時に、サーシャは死んだのかもしれない。)

 ジョーンは帰宅までに長女とも再会している。この長女も他の家族同様ジョーンを慇懃に扱うが、相変わらず内心は冷めた目で母を見やっている。ジョーンは自分の内面に起きた真相をこの娘は知らないのだから仕方ないと思いつつ、その「真相」に果たして具体的証拠があるのかとふと自問する。もしかするとあれは妄想だったのかと。

 長女は会話の中で、じきに始まるであろう戦争(第二次世界大戦)に言及する。ジョーンは驚き、そういえばサーシャも同じことを言っていたと思い出すが、そんなことは起こるはずもないと一蹴する。不都合な現実を見ようとせずに蓋をするジョーンの従前の頑なな癖が、ここで鎌首をもたげる。そんなことは信じたくもない。

 メイドも以前と変わらぬ接し方で自分を迎える。懐かしい田園風景、家の様子。ジョーンの決意はグラグラと揺らぐ。夫に対面した直後、ついに彼女は新しく生まれかけた自己を殺してしまうのだ。
 

論点②


 哀しく恐ろしい事実(作家・栗本薫の解説より)はもう一つ。ジョーンが「私はひとりじゃないわ。あなたがいるんですもの。」と言ったのに対し、夫のロドニーは心の中でつぶやく。「君はひとりぼっちだ。これからもおそらく。しかし、ああ、どうか、きみがそれに気づかずにすむように。」

 ロドニーはジョーンの改心など期待していなかった!むしろ、永久に変わらないでいることを望んでいたのだ…。

 これは愛ゆえだろうか?ロドニーが、ジョーンが実は誰とも心の結びつきがないことを不憫に思い、それを一生知らないでいることが幸福だとする思いやりなのだろうか。知ったら彼女は耐えられないと、いわば見くびっているが、そんな弱い妻でも包容するという、一種の愛なのだろうか。
 

ジョーンが無知である必要性①


 ジョーンが改心していたら何が起きていただろう。ジョーンはあの鉄道宿泊所のある砂漠の中で発見した――ロドニーが、友人の妻で不遇な身の上の(とジョーンは思っていた)レスリーのことを愛していたのだと。そのことに対する彼女の所感が詳しく描かれているわけではないが、憤慨したり、嫉妬心を露わにしたりという様子は微塵もなく、事実を素直に受け止めているようだ。悟ったこと全てを打ち明け、自分が間違っていたと告白するつもりでいたには違いない。おそらく、こう言いたかっただろう。

 「ロドニー、許してください。私は何も知らなかったのです。あなたはレスリーに愛情を抱いていたのでしょう。それはもっともなことです。レスリーはあの境遇にもかかわらず、勇敢で、献身的で、慎ましやかで、最後まで高潔を保った、本当の意味で幸福なお人でした。私はそれを、勇気が全てでないなどと…かわいそうな人だなんて、私が愚かでした。」

 しかしそのような告白を受けては、ロドニーはいかにもばつが悪い思いをしたであろう。ロドニーのレスリーへの愛は、二人で小さな丘に4フィート明けて座り、押し黙ったままただ同じ景色を見つめるほどに深かったのだ。レスリー亡き今、その燦然たる思い出は何人も介入しない静謐の中でしか保てない。レスリーの素晴らしさは彼のみが理解していた。おそらく、ジョーンがレスリーのことを貶めて評価することでますますその確信を深めていただろう。

ジョーンが無知である必要性②

 
 また、ジョーンの存在はロドニーにとって、父としての威厳を保つために役立ったようにも見える。
 賢明な長女が道にはずれた恋に突き進もうとしていた時のこと――相手は病身の妻を抱えた聡明な医者だった。二人は恋に落ち、妻に離婚を迫り、医者の職も捨て、駆け落ちする計画をしていた――。

 父ロドニーは長女を諭すために、一つには結婚とは「あらゆるセンチメンタルな感情や思考を抜きにして、ごく普通の実際的な契約である」と認めさせる。医者の妻にも契約上の権利があるのにそれを一方的に破棄させることは許されないと。

 そしてもう一つ、相手に医者を辞めさせることの不義理についても力説する。何も医学界の損失のことばかりではない。それよりも…「僕ははっきりいっておく、エイヴラル、自分の望む仕事に就けない男――自分の天職に就けない男は、男であって男でないと。僕は確言する。もしきみがルパート・カーギルを彼の仕事から引き離し、その仕事の継続を不可能にさせるならば、他日きみは必ず、きみの愛する男が不幸せな、失意の状態に喘ぐのを見て、どうしようもなく苦しまねばならないとね。きみは彼が時ならずして老い込み、人生に倦み疲れ、希望を失って生ける屍のような生活を送るのを見るだろう。きみがきみの愛、いや、およそ女性の愛にして、その埋め合わせになるほどすばらしいものだと思いあがるなら、ぼくははっきり言うよ、きみは途方もないセンチメンタルな愚か者だと」。

 この男であって男でない、生ける屍とは、ロドニー自身のことだ。彼はもっと若かった時、伯父から法律事務所の共同経営の話が出た際に、妻に対し、実はそれより農場の経営がしたいのだと打ち明けていた。しかしジョーンは妻として「二人分の分別を働かせて」、夫の農場経営の夢を切り捨て、法律事務所を引き継がせていた。

 父ロドニーは自分の経験として知っていた。長女はこのままでは母のように、恋人の人格を父がそうされたように蹂躙してしまうと。聡い長女はぐうの音も出ず、父の説得に応じることとなった。

 ロドニーはこれに対して「勝った」と表現している。妻との契約を固守し、男の勲章たる天職を諦めても妻に従っている自分を、ある意味誇示しているのだ。長女はこのことで自分を恨んでいるかもしれないが、尊敬の念は変わらず自分のもとにあると確信している。また次女からも、母には言えない本心を書き綴った手紙を受け取り、父娘間の結束を確認して満足している。
 

結論


 要するに、無知なジョーンはロドニーが体面を保つための必要悪としての役割を果たしていると言える。

 ジョーンが鉄道で出会ったサーシャは、知っていたのではないか――急激に悟りを開く者はいるが、それがその者の周りの人間にとって、不都合に働くことになるものだと――。


おわりに

 
 「私、コペルニクスのことを考えていましたの。」レスリーはかつて言った。彼女がなぜコペルニクスのことなど考えていたのかは判然としないが、ロドニーはそのことが忘れられず、今も部屋にコペルニクスの版画を掛けている。ジョーンはその版画を「値打ちものですの?」と、にべもない。あの砂漠で彼女に起きたコペルニクス的転回のことなどすっかり忘れてしまって…。
 
 



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