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教え育てるということ

こんばんは、こんにちは。
飛び亀です。

今日はまた小難しい話を書きますが、
全部僕の思いですので、読む場合はあまり真に受けずに読んでください。

教育者ってだれ? ~ありがちな冒頭

みなさん、まず「教育者」「教育に携わる人」って言うと、どんな人をイメージします?
色々あると思います。もちろん、こんな記事を見つけ出して読んでる人ですから、自分が教育者だと言える人も多いでしょう。

そもそも「教育」なんて言うと、堅苦しい、偉そうな言葉に感じる人もいるかもしれません。
でも、個人的には「教育」なんてただの二字熟語で、意味は単に「教え育てること」だと思っています。

ということで、僕の解釈では「教育者とは誰かを教えて育てている人みんなのこと」です。
そして結論を言えば、ほとんどみんなが教育者だと、僕は思っています。

何を言っているのかと。
また、「教える」「育てる」なんて偉そうに、という印象の方がいるかもしれない。ちなみに僕も、たまにそう思います。
でも、そのたび思い直します。いや、責任を逃れようってのは駄目だ。これは間違いなく「教えてる」し、「育てようとしてる」、と。

どうでしょう。
今まで誰かに「教える」、誰かを「育てる」立場になったことがないって人は、なかなかいないんじゃないかと思うんです。
仮に今までなくとも、今後の人生で「人を教える立場」になる可能性は、誰しも相応にあるのではないでしょうか。

もちろん、人生常に教える立場なんてのは、それこそ「教師」なんでしょう。でも、過去や未来のどこかで誰かを教育をすることになるって、なかなか逃れづらいことだと思うんです。

何が言いたいかというと、みんな教育者だよと。そういう話です。

「責任」もって教育をする ~教育を考えて教育しよう

大変に重苦しいことを今から述べます。

嘘です。
既に見出しで述べていました。

人を教え育てることには、責任が伴います
僕は、そう思います。責任もって教えろ、と。

これは当たり前っちゃ当たり前の言ですが、もう1つ。
先の「みんな教育者だよ」を鑑みると、「みーんな教育における責任があるよ」ということです。
僕はこれが言いたい。

いわゆる「教育関係者」だけじゃなく、もちろん親だけでもなく。
みんな責任もって教育してほしい

いやいや偉そうに。「責任もって」って何だよ、と。
そう、教育における責任とは何か

これが一番大事だと思うんですよ。
僕の考えを言うと、これ、何か悪い結果を生んだときの責任という意味ではありません

教育とはどうあるべきか、自分で考えること」。
これが教育を行う際の責任です。そう思います。結果が出せるかよりも、まずこれでしょう。

教育について考えるって、みんながみんなした方がいいことだと思っちゃってるんですよね、僕は。
それこそ「教育問題」ってみんなに関係あるはず、関係ない人類なんてほとんどいないはず、なんて思うのですが……

まあ教育全般について考えるのが嫌でも、少なくともですね、
自分が今から行う教育はどうあるべきか」くらいは考えるのが責任かなと、そう思います。

大人から子どもはもちろん、上司から部下ももちろん、
先輩から後輩、同僚から同僚、友達から友達、いろんな人間関係の中に教育は紛れ込んでくると思うので。

そもそも、よほどセンスの輝いてる人でないと、
教えることについて何も考えないまま人に教えるなんて、絶対結果も上手くいかないと思うんだけど。

僕の「教育」論 ~根っこ編

最後に「じゃあお前は、教育はどうあるべきだと思っているんだ」と、心の声が飛んできたので、それだけ書き散らします。

僕は誰かを教えるとき、その相手に何を教えるのかを明確にします。

でもそのためには、そもそも相手が何を分かっていないのかも明確でないといけません。

「相手は○○が分からない、知らない」
「だから○○について教える」

この前提がないと、教育は成り立たないと思っています。

相手が既に分かっていることを教えても、それは「教えたつもり」です。実際には相手の育つ要素が無い、ただのしゃべりです。
また、自分が何を教えるのか明確でないと、それもただしゃべるだけになります。たまたまその中に、相手の得になる情報があればラッキーくらいです。
それじゃあ、まさに無責任かなと思います。


もう1つ。

「相手は○○が分からない、知らない」
「だから○○について教える」

これが固まっていると、「教える中で怒る」ことが減ると思います。

少なくとも勉強だのスキルだのを教えるうえでは、「怒る」のはもちろん「叱る」ことも全く意味がないと思っています。

具体的には「なんで繰り下がりもできないんだ!」とか「なんでバック駐車がそんなに下手なんだ!」とか「なんで電話の1本もまともにできないんだ!」とか。

そういうスキル面で出来ないことを怒っても叱っても、叱られるのが嫌だからと言って出来るようになるのでしょうか。

練習しなきゃ、くらいはあるかもしれません。
でも、まだ練習してもできないレベルだとしたら?

未獲得の知識やスキルは叱っても手に入るはずがなく、教えるしかないのです。

ちなみに、ここでいう「教える」というのは「答えを教える」ことには限りません。問題だけ、ヒントだけ出して考えさせる方法も「教える」の1つです。

でも、ヒントを出しても答えられないときに、「なんで分かんないんだ!」は可笑しいという話です。
知らないんだから答えられるわけありません
そこで怒ったり叱ったりするということは、相手が何を知らないのか、または自分が何を教えたいのかを分かっていない証左です。

僕のポリシーとしては、相手の行動・態度面以外では叱りません。特に勉強とかスキルを教えているだけの場面では、できないのが当たり前と思って教えます。
文字にすると失礼な話かもしれませんが、そう思っている方が褒めるときに褒められますしね。

ただ、相手が○○について知っているかどうか明確でないときは、探りを入れながら教えます。明確でないのに「知らないだろう」という前提で偉そうに教示するのは、それこそ失礼なので。
矛盾するようですが、「できないのが当たり前」と思いつつ、「できないだろう」とは思わないということです。

昔、聞かれたことがある気がします。確か、昔に塾の講師をやっていたときでしょうか。
「俺、こんなに間違えるのによく怒らないね」と。

「いや今日初めて教えたことなんだし、いきなりできたらむしろすごいわ」
「初めて習ったこととか、頑張っててもできないことに怒りはないし」
「宿題サボったせいで忘れてできないなら怒るけど」

そんな答えをしたか。
実際、宿題サボって全部抜けてるやつには怒ったかもしれません。

怒ったり叱ったりして変わるとしたら自力で変えられる範囲の態度面なので、そこを見抜かないうちに叱っても仕方ないということですね。

見立てを大事にするということです。

あと偉そうに言いましたが、そんなに自分の生徒の成績は上がりませんでした。いくら見立てても実行力がないと意味がないということです。


結局、僕個人の教育観が一番長くなりましたとさ。
案の定。

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